Fuji to Higanzakura

料理簡易記録、ときどき、?

人と牛と蘭に通底するもの(2)

私や姉などは、母が、こんなのをちょっと食べたとか、お花をじっと見てた、といった次元で母とコンタクトし(ようとし)ていた。

母は、アンデルセン童話かなにかにある、歓待をうけて10枚重ねのふかふか布団で休んだお姫さまが、朝、ぜんぜん眠れなかったといい、それは10枚布団の下に豆粒が一つあってそれが背中にあたって痛かったから、というお話しが好きで、娘らが小さい頃にはその話をよく語ってくれたような人で、つまりそのう、実は母という人が、仮にお布団10枚で休んでも必ずどこかご不満やさんなのだった。(もごもごもご今で言うところのHSPだったのだろうと思っている。HSP概念に出会える頃でもなかったし、自分の生きにくさをご不満やさん性格にせず姫として自身が引き受けるには少し時代が早すぎた。娘としては今はもうどちらでもいい。)ともかく、脳梗塞でほとんど意思表示のできないこんな状態になっても、そんな母のご不満性格はやはり出ているように見えるのも、半ば、いかにも母らしい「人らしさ」の片りんのようで、娘らは半分苦笑いで喜んだ。眉間にしわを寄せて眠っていることが多かった。娘らはそれを見て、あーママちゃんだと思って、指で眉間のしわをウニ―と伸ばしたり。(最初にこれをやったのはKY系天衣無縫なところのある姉です。ちなみに、自分が眉間にしわを寄せてるときに気づいてうにーって自分で眉間のしわを指で伸ばすと、少し気分がよくなるから実験してみてください。)こちらがウニーっと母のしわを伸ばした手を放すと、母はまた眉間にしわを寄せる。それを繰り返していると、そのうちなんだかもちつきのリズム(もちをつく人、もちを返す人)のような感じになってきて、あれ?母も、今ちょっとここに降りてきている、なんか遊びのようになってるこのリズムを、少し感じてちょっとわかってやってるよねこれ、みたいな。

それはそれで、今の自分の身体の中にもリズム記憶のようになって母との関わりの大事な何かとして残っているが。。。脳梗塞入院から家に戻ってきたときも今回も、微熱が出ていることに最初に気づいたのは父だった。しかも、額は冷えてるのに、お腹まわりだけやけに発熱してる、とか。発熱してても汗をかかない、とか。退院して家に戻った頃、そんな細かいところに気づいて、「脳のサーモスタット調整機構も少しいかれてるんだろう、夏が越せるかな」と言いながら、お腹まわりは熱がこもらないように毛布を掛けたりはせず、軽いタオルケットを首回りと、足の方にかけるなどをして体温調整していた。そうこうするうちに、そのうちなぜだか母も汗がかけるようになって、入浴サービスも受けられるようになったり。姉と父とで汗をかいた寝巻を着替えさせるときには、袖にうまく腕を通せずにいたら母は「痛いよ」という言葉さえ発したらしい。「あーごめんごめんごめん」と姉は声掛けしたようだが、言葉を発したと思ったら「痛いよ」、というあたりが母だと姉がおかしがって教えてくれた。

発熱の様子に細かく気づいたのは父。日々の尿の量変化を見ては、尿が尿バックに落ちやすいよう尿カテーテルをせっせとしごいていたのも父だった。後で知るが、尿カテーテルは感染リスクもあり、細菌に感染した尿が尿バックの方におちずに膀胱に長くたまったままだと腎臓に逆流してそこから全身に感染がまわるということがあるらしく、母の感染症数値の高さがそれだったのかどうか正確なところはわからないが、父はそういうことをきちんと知っていたわけではないだろうに、膀胱に長く尿がたまったままでいないよう、夜も自分がトイレに起きる度ごとに、必ずカテーテルをしごいていた。

多分娘らとは、母と関わる次元が少し違った。

それはおそらく、前記事に書いたような、牛の直腸と対話するときと近しい次元で、その次元にすっと降りていたのは父だった。

つづく

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写真ぬいぐるみは、牛さんではなくコアラさん。コアラさんもずっと見守り隊をしてくれた。今も一緒のはず。