Fuji to Higanzakura

料理簡易記録、ときどき、?

紫からどこにいく?

赤ちゃんの頃の火傷で足が悪かったので、小さい頃から、一人で身をたてさせることを考えてお茶とお華に通わされたそうだ。家が裕福だったわけではないので、お稽古事としてではなく、将来の職業を見込んで。年頃になって、お嬢様のお稽古事として他の娘さんたちが習いだすとき、同じ年ごろなのに、自分は師範免許もある先輩格になっている。異色だったと思う。お茶の初釜では、いいところのお嬢様方が、新調した着物を着てくる。そんないい着物は作れない。けれど貧相にみえる着物は立場的に着れない着たくない。姉(私の伯母)からお古をもらって紫一色に染め変えた。赤みの少ない濃い紫。一人で場をさらった。次のお茶会では、お嬢様らがのきなみ紫の着物を作った。そのときは今度は、単色の着物の裾に斜めに一本菊の絵を入れてもらう。次にはそれが流行る、みたいなことをやらかしていたらしい。お茶とお華は、火傷の足を補うものなはずだったのに、足が悪かったために正座の負担で膝が悪くなって結局中年までいかずに続けられなくなったが、小さくなで肩で、着物はよく似合った。

洋服は仕立ての時代で、ワンピース一択。一見華やかに見えるけど、ブラウスとスカートを作ると、生地が2種類で、仕立て賃も二着分かかるので、ワンピースの方が経済的という理由から。実家が二輪車屋だったので10代の頃から原付きに乗る。ほぼ70年前に、最近じわじわ大人気のアニメ「スーパーカブ」のはしりをやってたということか。ワンピースのすそをはためかせて若い娘が原付に乗ってると、車がみんなよけてくれたそうだ。自分の前で海が割れて道ができたモーゼだねそれは。

 高めの声がよく通る上によくしゃべる。自分のうちが商売屋でオープンスペースだったので、娘の友人らも家に遊びに来ることを好んだ。父は母の実家に母がいないときも入り浸ってた人らしいので、父も娘の友達がくることを好んだ。なので、うちも、私や姉がいなくても、友人らが来たりした。実家の居心地がいまいちらしい大学が休み期間の帰省組が来て、母の相手をして持ってきた土産のお菓子を自分で食べて帰っていった。喪中ハガキを出したので、驚いたと返信がくる。たいてい、声が蘇った、と書いてある。

 肺がんで片肺の1/3を失くしても、そのあとも、治療法がないので進行するだけという間質性肺炎の診断も受けて、ちょっとずつでも確実に肺が白くなっていっても、血中酸素濃度が長いことずっと高いままだったのは、声とおしゃべりのおかげだと思っていたけれど、実は、心臓が頑張っていたのだろう。心臓がさすがにくたびれだした。

 寝付いた頃から、似合う服の色が変わった。

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