Fuji to Higanzakura

料理簡易記録、ときどき、?

人と牛と蘭に通底するもの(3)

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「摘便とお花見」や「在宅無限大」など、在宅ケアについて現象学的アプローチをされている村上靖彦氏の「ケアとは何か」を、ふとポチして購入し、つらつら読んでいる。

ALSで筋力が衰えて<からだ>をまったく動かすこともできなくなる「閉じ込め症候群」に陥いり、もはやまぶたも眼球も動かせず、完全にコミュニケーションの可能性を絶たれていた母親をケアする娘の述懐(川口有美子「逝かない身体」)を引用しての記述があった。

ーーーー母親の身体は動かないが、娘は変わりに身体の発汗や熱を<からだ>のサインとして読み取る。これはサインとして成立するぎりぎりの線だろう。発汗や発熱は生理的な現象であって、意図的な意思表示ではない。それでもこれらがサインたりえているのは、身体の生理現象を<からだ>からのサインへと翻訳するケアラーの側の感受性ゆえである。生命を感じ取るという仕方で、川口は母親との<出会いの場>を開き続けている。ある日、ついにサインがまったく見当たらなくなる瞬間がくるかもしれない。そうなってしまっても、当事者の存在は最後まで残る。その存在の重みは、川口有美子によって「蘭の花を育てるように大事に」と表現された。ーーーー

母は、私や姉に「人らしい」サインを出すことも時にはできるレベルだったが、母のケアをしていた父の次元は、「人らしい」サインよりもその向こうのサイン、存在の重みからくるサインと<出会い>つながっていたと思う。

父は、温室で蘭の花を育てていた。母のケアについての比喩表現ではなく、文字通りに趣味で。聞こえほど優雅なイメージのものではなく、壁面には緑の藻がついているような温室だが、蘭の鉢は3桁はいっていた。

母のケアのために、父の温室の蘭は、今年全滅した。