Fuji to Higanzakura

料理簡易記録、ときどき、?

デビューの幸先は上々です

着るものは、葬儀社も、きれいな白装束を持ってきてくれて、なんだ、そう心配しなくてもよかったんだ、そうだよね、みんな悩むところは同じという経験知があるんだね、と感心したけれど、せっかく用意してあったので、引き出しから二部式着物一式を取り出してお願いした。見るなり「左前にさせていただくのですが、よろしいでしょうか」と言われ、もちろんそういうものと知っていたので、はいと答えたけれど、この見るなりのタイミングに「ん?」と感じたひっかかりは、着せていく段でわかってきたが、つまり、帯で襟をあわせる普通の着物と違って、二部式着物は、ひもで結んで襟をあわせる形式なので、そのままでは左前にできないので、このままで着せるのであれば、ひもは無視して、向こうが持ってきてくれてあった白装束の帯を使ってあわせることになるが、着物についている合わせ用のひもはこのままでいいですか?ということなのだった。あちらもこちらの気持ちに余計な負担をかけない配慮をした言葉かけをするので、最初からそれがわかったわけではなく、じわじわとわかってくる。きれいな帯だったので、それはそれでいいと思った。でも、だんだんと、いいのかな、になってくる。あちらも気遣いはしてくれるけれど時間で動いているので、迷いをうまく言い出せない。帰られる間際に、「あの、皆さん帰られたあと、もしかしたらひもの位置をつけかえようという気持ちになるかもしれないですが、勝手にやってもいいですか?」と尋ねたら、ドライアイスに気をつけてくださいね、とのことだった。

父には見られたくなかった。夜中に裁縫道具を持って母の隣に座り、白い上掛けとドライアイスをどけてかがみこんだ。外側で結びあわせるひも2か所、内側で結びあわせるひも2か所、計4か所のひもをはずして、反対位置につけかえる。不器用まるだしの下手くそ糸目で。だいたい、本人でない者が、言われてもないのにこんな着物を準備することからしてかなりなことで、タブー領域踏み込みまくりだ。母が、強がりと不安に揺れるところを、揺れる度に同時にはあわせられないタイムラグごとに、傷つけあいは避けられなかった。お前はよくやってくれるがきつい、とも言われた。あちらが、揺れている領域や、言葉にしなかった領域に踏み込むというのは、引導を渡しているようなものだ。着物を準備しているときにもその自覚はあったつもりだったけれど、二部式のひもの付け替えまでは、まったく思い及ばなかった。場合によっては時には非難も受けかねないこと、自分のお墓まで抱えていくのだろうこともあった。誰に頼まれたわけでもない、ひも位置の付け替えをしながら、どこまで自分はさせられるのか、と感じてしまうのは、理くつではもうわからない、天に向かってこのやろう的な気持ちでぼろぼろに泣きながら付け替えた。

人心地ついて冷静になると、ずっと掌の下に置いていたお茶袋の右左が違っているのに気づいた。右手下が女性の守り神、玉依姫の真珠入りお守りをつけたお茶袋。少し動く左手の下に置いてあった鈴つき袋(鈴は金属で棺に入れられないとのことで今は私のかばんについているが)、鈴をはずしたそのお茶袋は、左手下なのでございますよ。

ぬいぐるみコアラさんも、肩位置からちゃんと母のお顔をのぞき込んで見守ってる感のところに。

そうだ、こんな生娘みたいなキツキツな襟の合わせ方は、その地域で当時、お茶お華の師範取得最年少記録になっちゃったままちゃんは、生娘だったころからだってしてなかいよねぇ笑。玄人じゃないけど素人じゃない感じと、少女的清冽さの落としどころバランスってぇのがあるんでございますよ、と襟もなおした。

振り返ると、途中からはもはや、母の、こちらとは違う社交界?デビュ―の準備を女子的ノリで母の意識と一緒にしていたような気も。

あちらのマスカレードにのりこむよ、場をさらおうか、ままちゃん。

お葬式は家族だけでとの母の遺言だったので、親しかったお友達らは、母が家にいる間にお別れに来た。お友達と一緒に来ただんなさまが、「竹久夢二(の絵の女の人)のようですね」と言ってくれた。私が心のなかで、膝をあげてガッツポーズしたのは許されると思う。ちなみにそのお友達には「黙ってたらきれいな奥さんなのに、ってだから私いつも言ってたのよ」と言われていた。

f:id:higanzakura109:20211203135702j:plain

 

なんでもいい、けどそれはダメ

 寝付いたばかりの頃、母の母(祖母)が寝付いた時と自分のこの心臓は同じだと言っていた。秋に新婚旅行から戻ってきたら、おかあちゃ(祖母)が寝付いており、そのままちょうど1年で逝った、と。(母も秋に寝付いて1年だった。)リビングの葬儀パンフを見ておけ、と言ったのはその頃。その時、大島を棺に入れるなよ、とも言った。軽くてあったかくていいと、旅行などでよく着ていた大島紬の作務衣を自分に着せて棺に入れるな、焼いたらもったいないから、ということらしい。

 初老の頃、もちろん日常は普通に洋服を着ていたが、なにかのときに着物を着る際、帯がしんどくなってきたのか、二部式着物(帯なしで上部の衣と裾部に分かれていて上部は甚平のようにひも結びであわせて着る)を仕立てていた気配があった。その際に、手持ちの大島で作務衣も仕立てたようだ。結局よく着ていたのは、その作務衣と、食事などの際には別の大島で仕立てた二部式着物だった。

 その大島はダメと先に言われて思い巡らせてみると、そんなシチュエーションで着せるものとしてしっくりくるのはそれなんですけど、と思ったが、お前はきっとそう思うだろうからと先回りしてそれはダメと言われたのだった。かといってこれという指定もしてこなかった。困ったな。なんかデートの食事はなんでもいいと言ったのに、じゃあ中華にしよう、と言うと、えー中華はいや、とか言う女の子みたいな圧力を感じるんですけどー。とりあえずペンディングにしておいた。

 脳梗塞後、タンスの引き出しを見てまわった。ざらっと数着の二部式着物が出てきた。縮緬の色半襟をつけた肌着も、半襟の色ちがいで数着。だいたい、どの着物にどの半襟をあわせようと考えていかわかる。ここまでしておいて、しまわれていた着物群にはしつけがついたままだった。つまり仕立ててから着たことがない。化繊の遊び着。結局、軽くてあったかい大島ばかりを着ていた。そう高くはないだろうこれら化繊の遊び着二部式を、あわせる色半襟まで調えていたことからも、わくわくしながら自分で仕立てたのだろうが、母は覚えていなかったようだ。でもこれならもったいないからダメとは言われないだろう。それらの中で、明らかにこれを作った頃の母は、まずこの色目は着なかったろうに、でも魅かれて作っておきたくなったんだねこれ、とわかるものがあった。あーこれだね、ままちゃん。

 一応、他のものも含めて顔もとに着物を持っていって、顔映りを確認した。さすがにそれは母が眠っているときに。 

 一式を一つの引き出しに入れた。足袋もそろえて。庭で白藤が揺れていた頃。

f:id:higanzakura109:20211203142237j:plain

紫からどこにいく?

赤ちゃんの頃の火傷で足が悪かったので、小さい頃から、一人で身をたてさせることを考えてお茶とお華に通わされたそうだ。家が裕福だったわけではないので、お稽古事としてではなく、将来の職業を見込んで。年頃になって、お嬢様のお稽古事として他の娘さんたちが習いだすとき、同じ年ごろなのに、自分は師範免許もある先輩格になっている。異色だったと思う。お茶の初釜では、いいところのお嬢様方が、新調した着物を着てくる。そんないい着物は作れない。けれど貧相にみえる着物は立場的に着れない着たくない。姉(私の伯母)からお古をもらって紫一色に染め変えた。赤みの少ない濃い紫。一人で場をさらった。次のお茶会では、お嬢様らがのきなみ紫の着物を作った。そのときは今度は、単色の着物の裾に斜めに一本菊の絵を入れてもらう。次にはそれが流行る、みたいなことをやらかしていたらしい。お茶とお華は、火傷の足を補うものなはずだったのに、足が悪かったために正座の負担で膝が悪くなって結局中年までいかずに続けられなくなったが、小さくなで肩で、着物はよく似合った。

洋服は仕立ての時代で、ワンピース一択。一見華やかに見えるけど、ブラウスとスカートを作ると、生地が2種類で、仕立て賃も二着分かかるので、ワンピースの方が経済的という理由から。実家が二輪車屋だったので10代の頃から原付きに乗る。ほぼ70年前に、最近じわじわ大人気のアニメ「スーパーカブ」のはしりをやってたということか。ワンピースのすそをはためかせて若い娘が原付に乗ってると、車がみんなよけてくれたそうだ。自分の前で海が割れて道ができたモーゼだねそれは。

 高めの声がよく通る上によくしゃべる。自分のうちが商売屋でオープンスペースだったので、娘の友人らも家に遊びに来ることを好んだ。父は母の実家に母がいないときも入り浸ってた人らしいので、父も娘の友達がくることを好んだ。なので、うちも、私や姉がいなくても、友人らが来たりした。実家の居心地がいまいちらしい大学が休み期間の帰省組が来て、母の相手をして持ってきた土産のお菓子を自分で食べて帰っていった。喪中ハガキを出したので、驚いたと返信がくる。たいてい、声が蘇った、と書いてある。

 肺がんで片肺の1/3を失くしても、そのあとも、治療法がないので進行するだけという間質性肺炎の診断も受けて、ちょっとずつでも確実に肺が白くなっていっても、血中酸素濃度が長いことずっと高いままだったのは、声とおしゃべりのおかげだと思っていたけれど、実は、心臓が頑張っていたのだろう。心臓がさすがにくたびれだした。

 寝付いた頃から、似合う服の色が変わった。

f:id:higanzakura109:20201006150354j:plain

 

行き違いでなく

f:id:higanzakura109:20211127012826j:plain

義兄が掃除してくれた奥の座敷で湯灌と納棺をした。義兄は窓まで拭いてくれてあった。もうずっと物置になっていたけれど、本当は家で一番格があった部屋。広くて明るい部屋で、お風呂に入って着替えさせてもらって棺に入った。

 10日くらい前から、父が塀の外にある白い小菊が咲きそうだ(咲いたら母寝室に活けたらいい)と気にかけていた。今年はいつもべったりつくアブラムシも全然ついてないし、地植えの小菊は、茎の下半分くらいの葉っぱが縮れて見栄えが悪くなってしまうものだが(お散歩中に小菊が咲いてたらみてみてね)、葉っぱも下までやけにきれいだ、と言っていた。蕾は大きくなってくるとピンクになった。ぱぱさん白じゃないよピンクだよ。咲き出したのは母と1日行き違い。いや、行き違いでなく、このタイミングで降りてきた。

 寝室のレンタル介護ベッドは、納棺と同じ日に返納の連絡をするとすぐに回収に来た。流れでその他の有象無象の介護グッズをかたづけた。母が部屋を移動した日、寝室は父一人の寝室になった。 

ピンクの小菊を、天袋付近に並べた2つの花瓶に活けた。しばらくして行ってみると、その一つが、母に見えるようにかけていた入口の障子の桟に移っていた。

間歇泉

昭和時代の母娘関係なんて、きれいごとでは済まない。その時々の怒りやらや悔しさやら、ちゃんと覚えておいた方がボケないかな、それとも、そこだけ覚えてるとボケるかな。

まぁどうでもいいや。

寂しいはある。悲しいはない。間歇泉発作が時々ある。ああ自分が泣いているわけではないな、と感じることも。今はもうすっかり冬空だが、少し前、カラマツが金色の雨を降らせているときこれは母の反応なのか自分の反応なのか。

きれいだよね、お外はこんなにきれいだもんね。

少し遅れて友人のご母堂が亡くなった。その友人も姉も、息をしなくなった母親と数日対面したり触ったりしながら、自分の知ってたママさんのお顔じゃないなぁ、この中にはいないんだなぁ、と感じていったみたい。自分は、母が母の身体にいない、とかって感じ方はしてなかったな。母の身体にいる、とも思わなかったけど。49日内は、家にいたりするよ、とかってよく聞く話は、ちょっとこわごわ好奇心だけど、家の中で自分の外側に気配を感じるようなことも、ないな。ありそうな気もしない。でも時々、自分の反応ってだけじゃない、何か(母か?)が自分と摩擦を起こしているような間歇泉発作がある。

 

f:id:higanzakura109:20211126180120j:plain

 

母と添い寝する方法

ドライアイスのお兄さんが来たとき、母の身体はまだほんのりあたたかかった。

母ベッドと並んで奥に介護者のベッドがあるのを見て、「誰かここで休まれるんですか?」と聞くので、「はい、私が」と答えたら「寝ない方がいいですよ。ドライアイス二酸化炭素が出ますから」と言う。え?二酸化炭素中毒になるってこと? とはいえ、昨日まで母の隣には必ず誰かが寝ていて、今日もほんとはそのはずで、部屋の中も母も昨日から何も変わらないそのままなのに、呼吸と心臓が止まったってだけでいきなり今日は母一人がこの部屋で寝るってありえない感じなんだけど。通夜って夜通し傍にいるってやつでしょうもともとは、病院じゃなくて自宅にいるのにその当夜に家族が誰も一緒にいない方がいいってなんだそれ、とか一瞬のうちにぐるぐる思いめぐらしていたら「俺が寝るよ、いきなり一人じゃかわいそうだ」と父が即座に言ってこちらのぐるぐるを断ち切った。二酸化炭素は重いので、母ベッドを一番低い高さに調節し介護者ベッドの方を高くして、廊下側の障子と反対の窓をあけて扇風機で部屋から廊下に空気を流す、などと父と義兄が相談しだした。そうすれば大丈夫そうな気はするけど、明日、父は起きてくるんだろか。

母が息をしていた昼間と何も変わらないけれど、部屋にあふれる介護グッズの気配だけがぐわんと違う。無意味になったもの。そこにあるのを見ないふりして触れる気にならないもの。でもそこにいたら、きっと今日明日はそこに寝ている母と見比べては、どう感じていいかわからなくなるもの。母の隣は父が寝てくれるというし、休むつもりだった翌日の仕事に行こうと決めて、母の顔を見に家から飛んできたオットの車で一緒に自宅に戻った。

翌朝、実家にいる姉に電話したら、父は二酸化炭素から無事サバイブし、母が寝つきはじめて以来ずっとしているように、変わらず父が朝食を作ったという。

仕事を終えて実家に夜戻ると、ドライアイス取り換えのお兄さんが来て、部屋の様子を見て「どうされてますか?(部屋で一緒に休まれているんですか?)」と言う。昼間のうちに母は顔を綺麗に整えてもらっており、父は「(明日は別部屋で納棺だから、母がこの部屋のこのベッドで温かかったときと同じように寝ている最後の)もう一晩だけ隣で寝るよ。せっかく綺麗にもなったしねぇ」と言うと、ドライアイス兄さんは「寝ない方がいいんですけど」と言って帰っていった。

しばらくしたら、父がリビングのパソコンと首っ引きになっているので「二酸化炭素がどれくらいやばそうか調べてるの?」と聞くと、うんと言うのだが、画面をのぞきこむとなにやらグラフ表示が出ているので、何それ、と聞いたら、「寝室に二酸化炭素濃度計を置いて、そのデータを無線ランで飛ばしてるから、二酸化炭素濃度が時間経緯でグラフになって出てる」と返ってきた。

「はあああ? 二酸化炭素濃度計??? 無線ランで二酸化炭素濃度グラフ??? そもそもなんで二酸化炭素濃度計なんてものがあんの!?」「蘭の温室につけてたの」(蘭栽培は理想の二酸化炭素濃度がちょっと特殊らしいです。知らなかったけど)「ああそう!」「なんもしないと確かに3%くらいいっちゃうけど扇風機回すと下がるから俺寝るわ」「ああそう!」

翌朝、父の朝食を食べながら’。私:「無事でなによりです」。父:「うん、でもタイマー設定になってたみたいで、途中で扇風機とまってて、グラフ3%超えてたねぇ」義兄・姉・私:「シャレになんないから!!!」

綺麗でびっくりしたってよ

介護士の方が、訪問診察をずっとしてくれていたお医者さんに連絡をとってくれ、先生が来て宣告をいただいた。(在宅看取りの場合は救急車を呼んだりして別のお医者さんからの死亡診断になると警察介入になって大変らしい。)

苦しそうな気配が微塵もない綺麗なお顔で、母お得意の眉間の皺よせもなかった。

チューブも外されてすっきりして、眠ってるようにしか見えなかったけれど、なおしてもどうしても少しお口が空いてしまうので、身体の処置を色々しだしてくれていた介護士の方に、なんとかならない?と聞くと、葬儀社の方に頼むとやってくれる、と教えてくれた。「葬儀社の互助会とか入ってましたか?そこにすぐ電話してね」と言われ、母が寝付いたばかりの頃、リビングのあそこにある葬儀マニュアルパンフを読んでおけ、と言われていた冊子を出して電話したら、さっくりと互助会登録が確認されて、ドライアイスがその日のうちに届いた。

で、ドライアイスのおにいさんに聞いたらお口を閉じてもらうのは別料金だそうだ。お、とか思って、父の方を見たら、「いいよ、なおしてやって」と間髪入れず答えが返ってきた。

呼吸が止まるのを目のあたりにして、咄嗟に人口呼吸をしたが、頭と唇が冷たくなってきた、と言ってそれをやめた父は、そのあとも、唇が白くなったな、頭が最初に冷たくなるんだな、と母を触りながらつぶやいていた。文字通りに自分の手の平の中で母の顔の変化を感じながら看取るって、どんな感じなのか、父の間髪入れずの返事にどんな思いがあったかはわからないけれど、うん、お口は閉じてあげたいです。よかった。

お顔のお直しに来るのは翌日ということだった。

なんだかもう後は、葬儀社ベルトコンベアーにのるだけみたいだし、母は数日は家にいることになりそうだし、締め切りを抱えていた姉は、姉宅のパソコンを根こそぎひっこぬいて実家に持ち込み、数日拠点を実家にしてリモートワークしてくれるというし急に、今自分はなんか考えてもしょうがないな、とすっぽ抜けて、あれ?明日、別に仕事にいけるやん、となって、翌日は仕事に行った。

仕事から戻ってきて駅に迎えに来てくれた父に「お口どうなった?」と聞いたら、「えらい綺麗になってびっくりした。」と照れもてらいもなく言われ、こっちがびっくりした。白かった唇は閉じられてうっすらベージュピンクになっていた。そのままででもいいお顔だったから、お口があいていなければ処置(いわゆるエンバーミングになるのかな)は頼まなかったろう。お口をあけていたのは計算でしたかままちゃん。

脳梗塞後はなぜか総白髪だった母の髪が少しずつ黒くなりだした。家族成員は皆(母を筆頭に!だったけれど)お口が悪い。「頭の内側に血をまわさなくて済むようになった分、外にまわって若返っちゃってるよ」と家族は母の前でも話していた。遺影用に出した5年前の写真より若い。少し頬はこけたけどそれも趣だねままちゃん。心不全で手足はむくんでいて、その場合は亡くなったあと身体の水が回って顔がむくんじゃうことがあるから、頭の方はあげておくね、とベッドの傾きなど、介護士の方も気を遣ってくれた。お顔もむくんでないよ、ままちゃん。

1日出ていた間に、母だけでなく、家も綺麗になっていた。私の結納で使ってからうん十年、座敷として使われることもなくなって物置と化していた一番奥の座敷が、物がどけられ綺麗に掃除されてピカピカになっていた。棺を運びだすことになる動線上にある廊下の家具類も一つの部屋に片付けられて、家の中に風が通っていた。車庫まで掃き清められている。義理仕事でできることじゃない。お義兄さんこれはブラボーすぎだ泣。これは大変だったよね泣。

葬儀社との細かい打ち合わせは父がして、姉は、部屋にこもって仕事していたという。「結局ここにいただけやん」と姉に言ってみたら、「大丈夫。〇〇(義兄の名)が色々してくれてたもん」と誇らしげなドヤ顔。いつもの姉節です、はい。

義兄が、奥の部屋の壁かけ花瓶にお花さしてよ、と言った。そこに花が入るのもいったいいつぶりか。結納のとき入ってたかなぁ。床の間にはきっと母が何か活けていたろうけれど。

f:id:higanzakura109:20211123175355j:plain

挿したときから2週間後くらい。蕾からたくさん咲き誇った。