Fuji to Higanzakura

料理簡易記録、ときどき、?

時は選ばれていたのかな こちらの納得とは別に

姉は、ちょっととぼけている、というか、人騒がせというか、職業柄6桁の値段のスーツとかが仕事着なのだが、そんなスーツにも平気で食べ物をこぼすし、隣で義兄が、あーまたー、とやいやい面倒を見ている、そんなのが日常図のような人で。

母寝室には、母のベットともう一つ介護者のベッドがあり、廊下側の入口近くに母ベッド、その奥に介護者ベットで、母から見て左に障子を隔てて廊下、右手に介護者ベットとなっていた。普段、昼間の世話や、実家に帰ってきて挨拶するときは、廊下から部屋に入って、廊下側にあるベッドに寝ている母に、母の左側から声かけをする。

姉か私が実家にいるときは、姉か私が、いないときは父が母の隣で寝ていたが、昼間と違って夜中に母が不安発作を起こしたりした場合は、位置配置的に、隣で寝ている介護者は母の右側から、声かけするなり身体をさするなりする(でしょうが普通は)。

まだ話ができた頃の母から聞いたのだが、夜、苦しい苦しいと母が言っていたら、姉は自分のベッドの側から母に右から声をかけたりするのではなく、自分のベッドを降りわざわざぐるっとまわりこんで寝室入口前に立ち、母の左側から「大丈夫?」と声掛けしたそうだ。母は、は?この子はなんでわざわざこっちにまわりこんできたんだ????、となって不安発作の苦しさを一瞬忘れてしまったらしい。(こういうショック療法は1回しか効かないけれど。)夜のことは忘れてしまう母が覚えていて、私に言ったのだから、よっぽどこの子は「???」と思ったらしい笑

私は、あー姉の奴、昼間の声かけの仕方が身体にインプットされて固着してたな、いかにも姉だとおかしかったが、母はそのあと、「あの子は私が死んじゃったら壊れちゃわないかな」と言っていた。私は、壊れはしないと思うけど多分義兄(と私!)がしばらくちょっと大変、と思った(が黙っていた)。

母が逝ったとき、姉は前日から実家に来ていたが、大きな仕事の締め切りがあると言って、その朝帰っていき実家にはいなかった。私と父で看取ったが、父は「一人のときじゃなくてよかった」と言った。姉に連絡をしたとき「なんで私だけいないときに」とは姉は言わなかった。

母なりに時を選んだとは思わないけど、それでも時はやっぱり選ばれていたのかな。

ちなみに、最近のお灯明のろうそくはカップ型で、中にはカップが深いものもあり、確かに手を払うだけでは火が消しにくいなぁと思ったけれど、私はそれを消すときは、仏前に息がかからないよう、後ろ側を向いて移動してから結局息で消させてもらった。姉は、手の払いで消せない、息もかけちゃいけない、ということで、カップを持って左右に大きく振って消そうとしたらしい。溶けたロウは(当然!)あちこちに飛び散り、義兄の名を呼んで助けを求めてまた義兄に怒られたらしい挙句、でももう夜遅くて、父に、もうそのままでいいから、と言われ、朝は忙しくてそのままにして帰ってきたから次行ったときなんとかしといてよろしく、畳つるつるでぱぱちゃん転ぶと困る、と私に先日電話があった。情景が目に見えるようで「ああーこぼした後、あなたは靴下で畳のワックスがけまでしたんだねーひどいー」と言うと、「悪いのは私じゃないもん。ままちゃんが死んじゃったのが悪い」と返ってきた。

ままちゃん、姉が壊れてるのは、でも今に始まったことじゃないです。

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ピンクがお似合い

介護士の方が、母親から、経鼻栄養チューブ、酸素チューブ、尿カテーテルを全部外してくれた。父は、なにやら母に語りかけていた。いつも突然で人騒がせな人ですね、このくらいの面倒は気にしなくてもいいのに、とか。

そういえば、こんなにチューブにつながれて、言葉も動きもほとんどない状態だったけど、見る側が動揺してしまうような悲壮感を不思議と感じさせることがなかった(親ばかならぬ子どもバカか)。そんな状態になっても親しい友達も来てくれて、肌がつやつやできれいね、とか声かけしてもらえることが多かった。「次はきっと少し身体を起こせるわね。」なんて前向きに励まされると、目を閉じてぷいっと横を向いたけれど。それも同情喚起や罪悪感喚起にはならず、いかにもな母らしさを感じさせ、あ、やっぱりわかってるのね、という感動で、母と通じることのできた嬉しさの方が上回るようだった。お友達らは「私も頑張るからね。また来るね」と言って帰っていく。二人ほど「なんか、帰り際にありがとうって言われたわ」、と言う方もいた。

少し調子が良かった頃は、タモリさんの中国語みたいに、明らかに響きは日本語なのだが、意味を了解できないことを2度ほど父に長々話したそうだ。何を言ったのか。

意味をなす言葉で出たのは、お友達への「ありがとう」と、着替えをさせるときに父と姉へ言った「痛いよ」と、私と父が二人でオムツ替えをしたときは言わなかったけれど一番最初に父が一人でオムツ替えをするときに「嫌だ」と言ったとかいう3語で、言語を組み合わせ構築させなくていい、短い響きで1セットになっているような語は、ポコッと出ることもあったみたい。

家族と介護士の人たちは、母からありがとうの言葉は聞けなかった。言えたことのある語でも、調子によって出てこない、ということはあったとは思うが、オムツの世話をする人に、母はその語をきっと言えないだろう、という気はする。ただオムツを変えるときに、調子がよいときは、態勢を横向きにして少し動く左側を上にする場合は、左手でベッドの手すりをなんとかつかんで態勢が転がり戻らないよう協力してくれた。それで十分だった。

見栄っ張りさんなので、お友達が、動く方の手をグーパーさせてくれると、家族がさせるよりも少し長くやってくれた。オムツ替えなしで理学療法士の方に来てもらって、少しリハビリ運動をさせてもらうことにしたらいいかも、ということになって、その際には、浴衣タイプではないズボンのあるパジャマを用意した方がよかろうと、マジックテープで肩やズボンが開くパジャマも用意したが、それを使うことはなかった。あれが一番高かったのに!

浴衣タイプの寝巻は、病院で売られているものは私が気に入らず、「介護、浴衣、寝巻」とかから検索を初めて、「バスローブ、寝巻」とかの語に変えながら、明るいものを買っていた。介護士さんらもせっせと着替えさせてくれて、あっという間にくたびれるので、まめに新しいものを買っておいた。最終的には「マタニティー、入院、寝巻」みたいな検索語になった。どんどん若返ってる笑。最初のうちは、介護士さんらは「娘さんが来てるときじゃないと新しいものをおろすのは悪いわね」とか言っていたが「だいぶ涼しくなってきたし、少し厚手のこれ、おろしてもいいわね」とか言って、似合う、これ好き、とかきゃあきゃあいいながら着せてくれていたらしい。

一番好評だった寝巻で逝った。濃いピンクのストライプ。

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虎と蘭とでなく、蘭だけが発った

実家の賀状は、毎年、父親が温室の蘭を写真に撮って印刷していた。今年の蘭写真はない。切り花で玄関にあったものも、何度かふっと思ってはやめて自分も撮ってない。

喪中用の葉書を買いにいった父が、「(郵便局で)こんなのがありますよ、と出してくれたけど、切手部分(賀状では干支の絵がプリントされている)が胡蝶蘭なんだな」と見せてくれた。「ああ、裏面の蘭写真は今年はなしと思ったら切手部分に来ましたか」と返した。

喪中ハガキがぱらぱらと来出している。父は投函を終えた。娘らはまだだ。

人と牛と蘭に通底するもの(4)

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先の記事で、蘭は全滅した、と書いたが、正確には数鉢だけサバイブして花を咲かせた。全部を切り花にして父はそれを家に持ち混んだ。温室の中は、それで全き廃墟になった。

切った蘭の花を、水に挿してくれと言われ、花瓶に挿した。母寝室に花を欠かさずに活けるようになっていたが、父の蘭は、なぜか母寝室に持ち込む気持ちにならず、玄関に置いた。

母寝室の花は、1週ももたずに萎れることも、それよりもずっと長くもつこともあったけれど、母はたいてい、1週以上そこにある花はなぜか見なくなってしまうので、1週ごとに花を取り換えた。父親も、台風で落ちたサルスベリの花の枝を持ってきたり、庭にツワブキが咲いてるぞ、とか気に掛けるようになり、私がいない間に、母寝室の花がくたびれてくると、父は切り戻しなどをしてくれていたが、かなりくたびれてしまった花も処分はせず、私が実家に来るまでそのままで、何度か切り戻されて短くなった萎れた花が入っていたりした。

でも、玄関に活けた蘭については、しおれた花は、父は自分でもいで処分していた。胡蝶蘭の花はとても長くもつが、穂先から離れている方の花から順に萎れていく。

一つ一つ花の数が減っていった。

最後に、穂先に一つだけ花がついていた。オー・ヘンリーの「最後の一葉」を連想して、「パパさん、これ、後ろに花の絵を描かなだね」というと、「そうなんだよ」と返ってきた。

しばらくすると、水が入ったままの花瓶だけが、そこに残っていた。

水を捨てて花瓶を片づけた。

人と牛と蘭に通底するもの(3)

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「摘便とお花見」や「在宅無限大」など、在宅ケアについて現象学的アプローチをされている村上靖彦氏の「ケアとは何か」を、ふとポチして購入し、つらつら読んでいる。

ALSで筋力が衰えて<からだ>をまったく動かすこともできなくなる「閉じ込め症候群」に陥いり、もはやまぶたも眼球も動かせず、完全にコミュニケーションの可能性を絶たれていた母親をケアする娘の述懐(川口有美子「逝かない身体」)を引用しての記述があった。

ーーーー母親の身体は動かないが、娘は変わりに身体の発汗や熱を<からだ>のサインとして読み取る。これはサインとして成立するぎりぎりの線だろう。発汗や発熱は生理的な現象であって、意図的な意思表示ではない。それでもこれらがサインたりえているのは、身体の生理現象を<からだ>からのサインへと翻訳するケアラーの側の感受性ゆえである。生命を感じ取るという仕方で、川口は母親との<出会いの場>を開き続けている。ある日、ついにサインがまったく見当たらなくなる瞬間がくるかもしれない。そうなってしまっても、当事者の存在は最後まで残る。その存在の重みは、川口有美子によって「蘭の花を育てるように大事に」と表現された。ーーーー

母は、私や姉に「人らしい」サインを出すことも時にはできるレベルだったが、母のケアをしていた父の次元は、「人らしい」サインよりもその向こうのサイン、存在の重みからくるサインと<出会い>つながっていたと思う。

父は、温室で蘭の花を育てていた。母のケアについての比喩表現ではなく、文字通りに趣味で。聞こえほど優雅なイメージのものではなく、壁面には緑の藻がついているような温室だが、蘭の鉢は3桁はいっていた。

母のケアのために、父の温室の蘭は、今年全滅した。

人と牛と蘭に通底するもの(2)

私や姉などは、母が、こんなのをちょっと食べたとか、お花をじっと見てた、といった次元で母とコンタクトし(ようとし)ていた。

母は、アンデルセン童話かなにかにある、歓待をうけて10枚重ねのふかふか布団で休んだお姫さまが、朝、ぜんぜん眠れなかったといい、それは10枚布団の下に豆粒が一つあってそれが背中にあたって痛かったから、というお話しが好きで、娘らが小さい頃にはその話をよく語ってくれたような人で、つまりそのう、実は母という人が、仮にお布団10枚で休んでも必ずどこかご不満やさんなのだった。(もごもごもご今で言うところのHSPだったのだろうと思っている。HSP概念に出会える頃でもなかったし、自分の生きにくさをご不満やさん性格にせず姫として自身が引き受けるには少し時代が早すぎた。娘としては今はもうどちらでもいい。)ともかく、脳梗塞でほとんど意思表示のできないこんな状態になっても、そんな母のご不満性格はやはり出ているように見えるのも、半ば、いかにも母らしい「人らしさ」の片りんのようで、娘らは半分苦笑いで喜んだ。眉間にしわを寄せて眠っていることが多かった。娘らはそれを見て、あーママちゃんだと思って、指で眉間のしわをウニ―と伸ばしたり。(最初にこれをやったのはKY系天衣無縫なところのある姉です。ちなみに、自分が眉間にしわを寄せてるときに気づいてうにーって自分で眉間のしわを指で伸ばすと、少し気分がよくなるから実験してみてください。)こちらがウニーっと母のしわを伸ばした手を放すと、母はまた眉間にしわを寄せる。それを繰り返していると、そのうちなんだかもちつきのリズム(もちをつく人、もちを返す人)のような感じになってきて、あれ?母も、今ちょっとここに降りてきている、なんか遊びのようになってるこのリズムを、少し感じてちょっとわかってやってるよねこれ、みたいな。

それはそれで、今の自分の身体の中にもリズム記憶のようになって母との関わりの大事な何かとして残っているが。。。脳梗塞入院から家に戻ってきたときも今回も、微熱が出ていることに最初に気づいたのは父だった。しかも、額は冷えてるのに、お腹まわりだけやけに発熱してる、とか。発熱してても汗をかかない、とか。退院して家に戻った頃、そんな細かいところに気づいて、「脳のサーモスタット調整機構も少しいかれてるんだろう、夏が越せるかな」と言いながら、お腹まわりは熱がこもらないように毛布を掛けたりはせず、軽いタオルケットを首回りと、足の方にかけるなどをして体温調整していた。そうこうするうちに、そのうちなぜだか母も汗がかけるようになって、入浴サービスも受けられるようになったり。姉と父とで汗をかいた寝巻を着替えさせるときには、袖にうまく腕を通せずにいたら母は「痛いよ」という言葉さえ発したらしい。「あーごめんごめんごめん」と姉は声掛けしたようだが、言葉を発したと思ったら「痛いよ」、というあたりが母だと姉がおかしがって教えてくれた。

発熱の様子に細かく気づいたのは父。日々の尿の量変化を見ては、尿が尿バックに落ちやすいよう尿カテーテルをせっせとしごいていたのも父だった。後で知るが、尿カテーテルは感染リスクもあり、細菌に感染した尿が尿バックの方におちずに膀胱に長くたまったままだと腎臓に逆流してそこから全身に感染がまわるということがあるらしく、母の感染症数値の高さがそれだったのかどうか正確なところはわからないが、父はそういうことをきちんと知っていたわけではないだろうに、膀胱に長く尿がたまったままでいないよう、夜も自分がトイレに起きる度ごとに、必ずカテーテルをしごいていた。

多分娘らとは、母と関わる次元が少し違った。

それはおそらく、前記事に書いたような、牛の直腸と対話するときと近しい次元で、その次元にすっと降りていたのは父だった。

つづく

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写真ぬいぐるみは、牛さんではなくコアラさん。コアラさんもずっと見守り隊をしてくれた。今も一緒のはず。

人と牛と蘭に通底するもの(1)

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母が脳梗塞になって意思疎通がほとんどとれなくなる以前、心不全はすでに末期で、寝付いていたけれど、室内トイレを入れても母はかたくなにそれは使わずトイレまで歩いていった。だんだんとベッドから起きてトイレまで歩くにしても人の助けがいるようになったけれど。食事もリビングまでなんとか来ていた。介護士さんたちはあの心不全数値でありえない、もう普通はトイレも食事も寝付いたままになっていておかしくない状態だと驚いていた。家族は、そうなのか、ああママちゃんの意地っぱり気位だ、という認識だった。でも一度、一人でトイレに行こうとして間に合わず、その処理を、系統たてて思考したり実行したりする気力体力はもうなく、泣いて父を呼んで全部対処してもらったそうだ。翌々日くらいに実家に来た私に、母はそれを話した。色々なことを忘れるようになっていたけれど、その記憶は失くしていなかった。父に泣いて謝ったら父は、自分は農業高校で牛の直腸診もやってきたしこういうのは別にあたりまえのことなんだ、と言ったそうで、パパさんがパパさんで本当によかったと母は私に言った。

脳梗塞後の入院期間中、そのあとは退院させて在宅介護と家族は決めていたので、栄養剤投入やらオムツ替えやら家族介護者のための色々な練習日が何日か病院で設けられた。脳梗塞以前の母は、人の気配のある昼は安心してわりとよく眠るが、夜は、家族が寝付いて気配が消えると怖くなるのだろう不安発作を起こしていて、「そうなのよねぇ。隣の人が寝付いて気配が消えると起こすのよねぇ。(介護あるある)」と訪問介護の方も言っていたが、一番多く母の隣で晩を過ごしているのは父だったので、母の入院中は、父にはそれまでの休養をしてもらおうと、病院での練習は私が行って、諸々は在宅介護になってから父に伝授すればいいと、私が病院に通っていたら、一番メインの介護者になる父が来ていないがオムツ替えなどが父に本当にできるのかと病院側は心配した。「いや、父はできますから。農業経験もあって、牛の直腸診もしてきたような人ですから」と自分は答えてしまった。病院の看護師に「動物と人は違うんですよ」と呆れるように言われてしまい、あ、そりゃそう言われるわな、と自分の答えの間抜けぶりを振り返ったが、そこには介護に大事なことがあることは自分はもう知っていて、でも通じないかそりゃそうだ、とも思いつつ、父に、病院に心配されていると伝えたら、じゃぁいくよ、とさっくり病院に行ってくれた。

つづく