Fuji to Higanzakura

料理簡易記録、ときどき、?

ça pousse au-delà de moi  

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 5年以上前のレッスン時録音。とある国の地方音楽学校から、音楽院に中途編入で入ってしばらくの頃。

  音楽院の先生は、初めから冷たかった。レッスン時の伴奏専属ピアニストさんは先生がいないときだけ、少し優しかった。この録音時は、先生はちょっと席を外していて、見学の人が一人。

 先生からは既に、コロラトゥーラ(最高音超絶技巧系ソプラノ)になるのでもなかったらアジアの頭蓋骨骨格が声楽曲を西洋人に匹敵するほどの声で歌おうというのはどだい無理なのだ的なことを言われ出していたけれど、この仏人ピアニストさんからは、先生がいないときに「この曲はとてもフランス的だけれど、フランス人もあなたのようには歌えない」と言われた。同情が出発点だったとしても、私の仏語発音が彼女には致命的には聞こえないほどに、そこに同情以上の本気があったことは、ピアノの弾きっぷりからも信じていい気がした。

 この後の1年半は、先生に発音を直されると発声が壊れ、発声を直されると発音が壊れ、きれいに全部が壊れていった。「(アジア声とはいえ)いい声だけはあるわね」と言われた声もわからなくなって最後はなんだか歌詞さえ覚えられなくなってきて音楽院は満期終了。

 これを録ったときに使っていた簡易録音器ももうどこかに失くしてしまった。最近また買ったものは、もう会議録音仕様に特化して倍音をあえて拾わないのか、私の声が壊れているのか。

 今は、今の先生の耳も借りてヒントも沢山もらうけれど、先生から何かを教えてもらおうという気持ちではなく。教えー教えられ、の次元以前に、(母)音の響きのような領域があって、自分は今さらながらそこをやっている気がする。耳や身体に恵まれれば、そこから母国語が自然発現していくような領域。ちょっとずつ探せている気もする。やはり全然わからない気がしてぼーっとしたりもする。

 好きだから歌っているという聖域は持っていない。初めの頃はあったはずという感覚もなく、記憶はあるような気もするが偽記憶のようでそのときの幸せなどは感じない。そういう実感を改めて必要とも、感じない。

 ただ、自分の(中の)彼岸に、それがあることを知っている。

 Ça pousse au-delà de moi.

 彼岸に咲くなら、咲いたらよいよ。

 http://dl.dropbox.com/s/95ksndtwzbjfqzi/12.3.23chemin (mp3cut.net).mp3:sound

ちょっと音が大きい。音量半分くらいで。愛の小道。