Fuji to Higanzakura

料理簡易記録、ときどき、?

2016.12.28「織物•表現」記事まとめ (1)〜(5)まで

(1)頭でっかちさんを織る

 ふわりとセンスのいいセラピストさんというのが草の根的に沢山いるのであったらいい。実際そうなのだろう。勉強会などでは事例を検討したりするが、最近、セラピーの感じを織物に例えるイメージを聞いた。セラピーをしていて織物のイメージが浮かぶと。

  「主体」や「人格」といったとらえ方、それはある意味で自身の心理学アイデンティティーの土台めいたとらえ方だが、これまでのHiganzakura視点 でも書いて来たが、私はそれらを一度否定もし、必ずしも心理学枠内ではないこのような場も借りて、Higanzakura視点記事を自ら書いてみる事にも より、ようやく少し「表現」というとらえ方に腰がすわってきた気もするが。一方で、そんなぐるぐるはせず、セラピーをしていておそらく必要だからというた だそれだけの感覚で、そこら辺を自然な流れでふわっと既にやっているセラピストさんたちがいる。セラピー実践をつづけている、ということの根にある感覚な のかもしれない。そのような大事な感覚は、今のところ多分現場感覚であって、「学」の言葉としては浮上していない何かであることが多いのが残念なのだけれ ど。私なんぞの頭でっかちはおかげさまでこうして遠回りになるが、でも私に負けず劣らずに頭でっかちなクライエントさんというのもいるし、多くは実際には 心理療法なんて受けずに耳学なり本なりで様子を知る(つもりになるしかない)わけだから、社会のマス的の流れは基本的には私のように頭でっかちになるわけ で、セラピーに関わる私自身がそれで行き詰まって、底なしの底を見続けて自分なりに言葉?(通じやすいものではないにせよ)にしてつづっていることは、頭 でっかちさんへのセーフティーネットに少しはなったりはしないだろうか、と思うことにもしてみたり。

 話しはもどって、織物イメージというのも、つまりある「表現」の場として、セラピーをとらえているということだと私は思った。

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(2)機能でなく、意味でなく、あるもの

 話しを聞いている と、セラピーについて、織物の「織り」の凹凸や奥行き感のようなものも含めて光や角度も変わったりしながら織りをとらえているような感じだという。ジャ ガードやタピストリーの「柄」がふわっと見えてくるようなときもあるけれど、柄の一つ一つを近くで見ようとしても何かはわからない。けれど、ああ、こんな 織物なのか、と感じられた感覚のもとでは、例えば、形としてはほころび てしまっていることなどは、それほど重要にはならない、というそんなセラピストのまなざしは温かいと思った。ほころびている織物は、何に使うか、などの 「機能」で見たならば、ある機能 としては、破綻しているところがあるということになるだろうが、ただ、そこにあると感じられる織物を、織物の存在のままに、その質感を、織りの柄を、凹凸 の陰影を、紬のようなでこぼこを、共に味わっている、そんなセラピー場となっている、ということだ。

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(3)

 セラピストとは別個のクライエントさんの存在のあり方を、織物に例えている、というのとは少し違う。セラピストとクライエントさんとで作られるセ ラピー場で表現されるものを、織物のように(セラピストが)感じている、ということ。さらに言えば、セラピストの介入の言葉などだって、織りの際の横糸の ようなものかも、とも感じられるのだから、織物イメージをセラピストとは独立の「クライエントさん個人」の象徴としてとらえているのとも少し違う。

  箱庭療法を日本の心理臨床の場にとりいれた故河合隼雄氏は、箱庭を「治療者と被治療者との人間関係を母体として生み出された一つの表現」と言ったが、セラ ピーの中で意図的に製作される具体的な箱庭だけではなく、そもそもセラピーの場に生成されていること自体全てが、既にそのようなセラピー関係を母体とした 「表現」なのだ、と考えると少しわかりやすいかもしれない。

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(4)言葉や理解では受肉されないもの。その受肉。

 セラピーを通して落ち着いてこられても、例えば近しい家族などに対しての恨みや嘆きといったネガティブな思いは消えないことは往々にある。そうい う実際は、一般の人が思うセラピーイメージとは異なるのではないかと思う。そのようなネガティブな思いに支配されて日常生活にも支障があるというような主 訴だったりすれば、そのような思いが癒されることを願ってセラピーを受けにくるとも、一般には思われているのではないかと思うからだが、日常が落ち着いて きても、そのようにはならないことも多い。

 例えば親などの、近しい人にネガティブな思いを抱くことになった経緯や状況を聞くと同情を禁じ 得ないことは多い。ただセラピスト自身も「(感性のあるまともな)人であるならば」感じるだろうとされるような共感的世界だけが、自分の心の世界の全てで はない、ということを知っていく過程というのもある。繰り返される恨みや嘆きに、こちらの感性や感覚や意識が、共感という形ではついていかずブラックアウ トするようなことがある。

 自分の癒えないままの傷つきは、セラピストにも同情共感されないというさらなる傷つきになって、クライエントさ んは重ねて傷つきそうなものだが、セラピスト自身が、自分の心に、感じるだろうはずの共感世界だけではない世界があることを無視せず認めている場合だろう か、必ずしもクライエントさんは傷つき雪だるまにはならない。そんな連鎖は起こらなくなるけれど、近しい人へのネガティブな思いが消えるわけでもない。

  このようなとき、生活も落ち着いてなお、恨みや嘆きの思いを表現し続けていることを、クライエントさんの人格構造やある種の発達の偏りとして解釈したくな る気持ちも動くものだが、その人なりの生活行動原理もでき落ち着いてもきた今、そのような解釈は果たして有用なのか、という問いも同時に立つ、そんなとこ ろにセラピストは居続けることになる。このような状態になると、往々にしてなんらかの形で、合意による終結ということが具現化することが多いように思う。

  そしてこのようなケースに織物イメージを持ったセラピストのセンスにのって、長きに渡ったケース全体を、大きなタピストリーのような織物としてとらえて見 る。それは確かに、ほころびてもいるが、感慨深くも見入るような、距離をとって前にたちながら視線は引き込まれていくような、そんな魅力的なタピストリー だ。時々思い出したように、延々変わりなく続いたネガティヴな思いは、それに対し共感でもなく解釈でもなくあるしかなかったセラピスト自身までをも含め、 もしそんなネガティブな思いがきれいになくなっていたとしたら、こんなふうに思えるタピストリーではなく、随分と面白みにかけるタピストリーなのではない か。「表現の深みということか?」と問われたら、「そうだ」と私は言うだろう。

 あたかも崇高なアートのように、見る人の理解や解釈が及ばない超越的なところがある、というのとは違うが、対話も共感も成立しなかった何かは、タピストリーを構成している何かにはなっていて「受肉」されているように思えた。

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(5)心理学パラダイムを、「私」のパラダイムにして、心理学パラダイム以外の「他(パラダイム)」もあることを前提にするための方法を考える。

 クライエントさんと織物というイメージを共有したわけではない。あくまでセラピスト側がそのようなイメージ感覚を持っていた、ということだ。織物 イメージをセラピストが抱えている、ということはどういうことか、という点はわかりにくいことかもしれないが、例えば、クライエントさんについて、人格構 造とか発達の偏りという「見立て」をしていても、それはセラピストの中で抱えていてクライエントさんに伝えないことも多い。受け止める構えを大きくとるこ とと、その一方で自分のとらえ方はあくまで自分の中での仮のとらえ方と自覚して固定させず他の可能性に開いてあるためにそのようになるのだが、セラピスト が抱えているそうした「見立て」のようなものが、「織物」イメージになっている、ということだ。クライエントさんの、セラピー世界でのあり方を、ある種の病理として見るよりも「表現」として見る、というセラピスト側のスタンス、とも言える。

 私は(1)で、時代の流れなどの中で、実際のセラ ピーに対峙しているセラピスト側の底にあるこうしたセンスは、必ずしも「学」の言葉になっていない、と書いたけれど。。。感覚を素直にして学会誌を繰って いたりすると、そのようなものにも出逢うことはある。ほぼ同期の同僚の中にも、こころや感覚を総動員してセラピーの中で使っているそのようなセンス部分を こそ、個人のセンスに終わらせず、心理臨床の「学」の言葉にしようと論文を書いているものもいる。

 私たち心理系のセラピストは、心理学パ ラダイムの中での言葉を使い、そのパラダイムでの認知でセラピーを生きる。セラピーを受けにくるということは、クライエントさんも、そのパラダイム世界を 生きるという契約であるという面はあり、そのような契約感覚が強固に共有されているときは、治療抵抗は解釈によって破られるとされてきた、と言えるだろ う。けれど実際には、こちらのパラダイムと、あちらの異なるパラダイムとの出逢い、という面はあるのだ。異なるパラダイムの出逢いによっておそらく双方共、時に、感覚や認識のブラックアウトもしながら、「落としどころ」を探っていくような作業だ。そのようなセラピー感覚の意識をやはり持っていて、時代のあり方、心理臨床というものの歴史変遷も含めて考察し、ケースを振り返っていると思える論文などもあって、とても興味深かった。

 私が今「表現」というとらえ方を重視しているのも、自分が根ともしてきた現代の心理学パラダイムを、相対的に自覚しようとするところから来る、「落としどころ」(可能性ともいう)なのだろう。

 織物イメージと、読んだその論文とをつないでもう少し書いてみたいけれど。。。今回はこのくらい。

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