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Fuji to Higanzakura

心理臨床ベースに少しずつ

織物•表現(5)

Higanzakura視点

 クライエントさんと織物というイメージを共有したわけではない。あくまでセラピスト側がそのようなイメージ感覚を持っていた、ということだ。織物イメージをセラピストが抱えている、ということはどういうことか、という点はわかりにくいことかもしれないが、例えば、クライエントさんについて、人格構造とか発達の偏りという「見立て」をしていても、それはセラピストの中で抱えていてクライエントさんに伝えないことも多い。受け止める構えを大きくとることと、その一方で自分のとらえ方はあくまで自分の中での仮のとらえ方と自覚して固定させず他の可能性に開いてあるためにそのようになるのだが、セラピストが抱えているそうした「見立て」のようなものが、「織物」イメージになっている、ということだ。クライエントさんの、セラピー世界でのあり方を、ある種の病理として見るよりも「表現」として見る、というセラピスト側のスタンス、とも言える。

 私は(1)で、時代の流れなどの中で、実際のセラピーに対峙しているセラピスト側の底にあるこうしたセンスは、必ずしも「学」の言葉になっていない、と書いたけれど。。。感覚を素直にして学会誌を繰っていたりすると、そのようなものにも出逢うことはある。ほぼ同期の同僚の中にも、こころや感覚を総動員してセラピーの中で使っているそのようなセンス部分をこそ、個人のセンスに終わらせず、心理臨床の「学」の言葉にしようと論文を書いているものもいる。

 私たち心理系のセラピストは、心理学パラダイムの中での言葉を使い、そのパラダイムでの認知でセラピーを生きる。セラピーを受けにくるということは、クライエントさんも、そのパラダイム世界を生きるという契約であるという面はあり、そのような契約感覚が強固に共有されているときは、治療抵抗は解釈によって破られるとされてきた、とは言えるだろう。けれど実際には、こちらのパラダイムと、あちらの異なるパラダイムとの出逢い、という面はあるのだ。異なるパラダイムの出逢いによっておそらく双方共、時に、感覚や認識のブラックアウトもしながら、「落としどころ」を探っていくような作業だ。そのようなセラピー感覚の意識をやはり持っていて、時代のあり方、心理臨床というものの歴史変遷も含めて考察し、ケースを振り返っていると思える論文などもあって、とても興味深かった。

 私が今「表現」というとらえ方を重視しているのも、自分が根ともしてきた現代の心理学パラダイムを、相対的に(他パラダイムとの差異で)自覚しようとするところから来る、「落としどころ」(可能性ともいう)なのだろう。

 織物イメージと、読んだその論文とをつないでもう少し書いてみたいけれど。。。今回はこのくらい。

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