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Fuji to Higanzakura

心理臨床ベースに少しずつ

織物•表現(4)

Higanzakura視点

 セラピーを通して落ち着いてこられても、例えば近しい家族などに対しての恨みや嘆きといったネガティブな思いは消えないことは往々にある。そういう実際は、一般の人が思うセラピーイメージとは異なるのではないかと思う。そのようなネガティブな思いに支配されて日常生活にも支障があるというような主訴だったりすれば、そのような思いが癒されることを願ってセラピーを受けにくるとも、一般には思われているのではないかと思うからだが、日常が落ち着いてきても、そのようにはならないことも多い。

 例えば親などの、近しい人にネガティブな思いを抱くことになった経緯や状況を聞くと同情を禁じ得ないことは多い。ただセラピスト自身も「(感性のあるまともな)人であるならば」感じるだろうとされるような共感的世界だけが、自分の心の世界の全てではない、ということを知っていく過程というのもある。繰り返される恨みや嘆きに、こちらの感性や感覚や意識が、共感という形ではついていかずブラックアウトするようなことがある。

 自分の癒えないままの傷つきは、セラピストにも同情共感されないというさらなる傷つきになって、クライエントさんは重ねて傷つきそうなものだが、セラピスト自身が、自分の心に、感じるだろうはずの共感世界だけではない世界があることを無視せず認めている場合だろうか、必ずしもクライエントさんは傷つき雪だるまにはならない。そんな連鎖は起こらなくなるけれど、近しい人へのネガティブな思いが消えるわけでもない。

 このようなとき、生活も落ち着いてなお、恨みや嘆きの思いを表現し続けていることを、クライエントさんの人格構造やある種の発達の偏りとして解釈したくなる気持ちも動くものだが、その人なりの生活行動原理もでき落ち着いてもきた今、そのような解釈は果たして有用なのか、という問いも同時に立つ、そんなところにセラピストは居続けることになる。このような状態になると、往々にしてなんらかの形で、合意による終結ということが具現化することが多いように思う。

 そしてこのようなケースに織物イメージを持ったセラピストのセンスにのって、長きに渡ったケース全体を、大きなタピストリーのような織物としてとらえて見る。それは確かに、ほころびてもいるが、感慨深くも見入るような、距離をとって前にたちながら視線は引き込まれていくような、そんな魅力的なタピストリーだ。時々思い出したように、延々変わりなく続いたネガティヴな思いは、それに対し共感でもなく解釈でもなくあるしかなかったセラピスト自身までをも含め、もしそんなネガティブな思いがきれいになくなっていたとしたら、こんなふうに思えるタピストリーではなく、随分と面白みにかけるタピストリーなのではないか。「表現の深みということか?」と問われたら、「そうだ」と私は言うだろう。

 あたかも崇高なアートのように、見る人の理解や解釈が及ばない超越的なところがある、というのとは違うが、対話も共感も成立しなかった何かは、タピストリーを構成している何かにはなっていて「受肉」されているように思えた。

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