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Fuji to Higanzakura

心理臨床ベースに少しずつ

WG展④

Higanzakura視点

 ゴーギャンは、遠く離れたタヒチに行った。ゴッホは、あんなにも日本に憧れながら、一人日本に行くことはわずかたりとも夢見はしなかったのだろうか。お金のあるなしはさておき。

  昔、毎度のごとく家人にひきずられてゴッホ美術館に行き、それまでは興味もなかったゴッホだが、大量の作品をずっと見るうちに、確かに絵をみながら何かが心動くようになった。けれどそこで、ゴッホが南仏のアルルに移り住んだときに、アルルの光は憧れの日本の光のようだ、と喜んでいたということを知って、正直随分勘違いな人だ、とも思った。私は、あちらに滞在中、最後の3、4年は今振り返ると、具合が色々と悪かった。その時期がなければまるで思わなかったろうが、ベルギー、オランダ、北ドイツあたりの暗さが骨の髄にまで沁みこんでこたえたとき、南仏と日本の光が、同じになるチャンネルが自分にはある。ゴッホは、浮き世絵からでしか日本の光は知らなかったにせよ、南仏と日本の光の重ね見は、それほど頓狂ではない。もしくは私が色々なおかげさまで少々頓狂になったかだ。ゴッホにとっては(ゴッホ以外の者にとっても)、きっと繋がる何かが、同じ何かがあるのだろう、と今は思える。

  今の時代の、凄腕のコーチングの方だったら、日本への憧れの思いを、現実的に無理だからと蓋をせずに、引き出して日本に行くことさえ現実化されたりしてしまうようなこともありえるだろうか。セラピーよりコーチングの方が強力に思いを現実化させていくイメージがあるが、現実化を目的としないのであれば、セラピーでも、日本への憧れ などについて、改めて気づきなおしたり温めるたりすることというのは、することではあるだろう。こちらから言う言わないはわからないけれど。

 発達障害的な現象に私(たち)はきゅうきゅ うとしすぎただろうか。セラピストークライエント関係は、常に、ゴッホゴーギャン的なものとばかりではないはずなのだけれど。ここ10年以上、そんなふうにばかり感じてきていたような気がする。確かに、そのような関係性へとどんどん嵌っていくとき、それは意図してのものではない。そうなったら、どんなに胸が痛もうと、「表現」のプロセスと信じるしかできないのだけれど、展開しているその現実とは異なるパラレルワールドは、どこにもないものとしてしまわなければいけないものでもない。

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雪まで降った今となっては、もう昔の写真。こんな黄色も好きかな。