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Fuji to Higanzakura

心理臨床ベースに少しずつ

WG展③

Higanzakura視点

 私は先に書いた「崩れ」という記事で、異質な他者と出逢うことも通して、「自身の」発達や表現を求めていくことについてを書き、その最後では、

”そのプロセスを、胸をつまらせながら、見守っていく。いや、もし共にいる光栄を得られたら、感動と共に見つめ見させていただく。ただそれだけだ。”

と書いた。ついこの間のことだ。この自分の言葉通りとすれば、ゴッホゴーギャンは異質な者同士として出逢って分かれ、それぞれの表現のあり方をそのような出逢いを通して深め、ゴーギャンも言っているように、その幾分かは実を結んだと言え、それぞれが描いた肘掛け椅子の絵には、相手へのリスペクトや愛や受容やらありながらも、それでもそれがそれぞれ別個の表現でもあることに感動もしながら、私は一連のその表現プロセスを胸をつまらせて見させていただく、できるのはただだそれだけだ、ということになる。実際、本展覧会順路の流れの中で自分がしたのはまさにそれだ。

 ただついこのあいだ、「崩れ」を書きながら思っていたこと感じていたことと、この展覧会コンセプトの類似性の付置に、やはりそういうものなのだ、そのように表現はできていくものなのだ、と重ねて納得して達観できるのか?していいのか?という自分への怒りめいたものも同時にあがってきた。

 見て、気持ち良くも思い、心動かされもする。そのような絵自体に納得しないわけではない。そもそも絵は、私のちっぽけな「納得できるかどうか」など軽々超えている。そこは手放す。でもこうした表現(絵)ができあがっていくプロセスに、「生身の二人」がそれぞれ行き着いていったところへのプロセスに、それは表現に伴うプロセスで、そういうものなのだから必要でしょうがないのだ、と納得して達観はしたくないらしいしできないみたいだ。

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日本好き、浮き世絵好きゴッホが、日本の自然を、ハリモミの黄色を幸せに描いているパラレルワールドを想う。