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Fuji to Higanzakura

心理臨床ベースに少しずつ

崩れ⑨

Higanzakura視点

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 随筆「しつけ帖」(幸田文)の、著者の娘さんである青木玉さんによる後書きが印象的だった。母の子どもの頃についての随筆は、子ども時代の母が抱えていた思いに、胸がいっぱいになり涙がこぼれそうになるという。母が分筆を業とするようになっても、今ひとつ思い通りではないらしく、ものを書くのは好まないようだったこと。仕事をしあげる度に体調をくずすこともよくあったこと。生涯を通して、大変だったなと思うことの連続で、自身の選択の及ばないことが殆どだったこと。避け難い苦労の数々に母はよくもめげずに切り抜けたが、娘としては、どうも割りに合わない気がして残念だったこと。ただ晩年、仕事を通して世界を拡げ、好きな樹木の見て歩きをし、山河の崩れの現場を訪ねることなどにより、多くの方々との交換があったことは仕合わせだったろうと心緩む、と書かれていた。

 自分自身の発達のあり方を、自ら求めようとするとき、定型発達者が示す物語的表現、非定型発達者が示す非物語的表現、というような括りはもはやおそらくナンセンスになるのかもしれず、ある程度本人の意識の動き方次第でどちらの表現も試みられるのだろうし、どちらの表現にもある程度柔らかに反応できたりするようになるのだろうと思い出している。その上で、でも仕合わせを感じられるのはどこら辺かを、もし生きている間に体験できるのなら、心緩む。

 今や、非定型発達的あり方も、自身の発達のあり方として、自ら実現していくものであるなら、それを定型発達的でなく今までになかったものだからとか、求められているものではないからとかから意味がないということはナンセンスだ。怖がらず発達のあり方を求める。そうしていくうちに他者から見てさえ幸せそうな状態にも、いつかどこかで出逢えるかもしれない。そのプロセスを引き受けられるか。

 そのようなプロセスの順番は、今の時代、そういうことになっている、としか言えない。ただそれは、今は唯一、母子的な暖かいまなざしから見たときだけ、プロセスの順番が違うのだ。生まれて来た幸せ感を土台にして発達していくのではない順番は。そのことを、玉さんは、涙が出そうになる、とか、娘としては晩年の「木」と「崩れ」まで、母の人生は割に合わない気がして心残る思いで見て来た、と言っているのだろう。

 ただ、そのプロセスの逆順を自身のプロセス順として引き受ける者、引き受けるしかない者がいる。わたしたちも、そのプロセスを、胸をつまらせながら、見守っていく。いや、もし共にいる光栄を得られたら、感動と共に見つめ見させていただく。ただそれだけだ。

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落葉前もみじの上に雪積もり

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 残雪上にもみじ降る