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Fuji to Higanzakura

心理臨床ベースに少しずつ

崩れ⑧

Higanzakura視点

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 もちろん心理療法にかかわらずとも、表現を通して(生きることを通して)「自分自身の」「発達のありかた」を見いだしていく人たちも沢山いるだろう。おそらく今改めて魅力的だ、と見直されるような人たちは、そういう視点からとらえなおすこともできるのではないだろうか。伊豆の長八さん然り伊豆の長八美術館 記事まとめ①〜⑦ - Fuji to Higanzakura山口晃氏が「ヘンな日本美術史」の中で取り上げている河鍋暁斎等の画家さん然り。今「崩れ」を読みながら、幸田文さんも。

 ところで⑤の本でとりあげている「発達スペクトラム」という考えは、定型発達と非定型発達とを連続させている軸であるが、定型発達だから健常で、非定型発達だから病理、というものではない。(⑤の私の説明だとそのようなニュアンスにとれると思うがそうではない。)確かに非定型発達の極はカナー型自閉症と言えると思うが、定型発達側の中には、過去に多かった神経症はもちろんだが、ある意味では統合失調症も入るということか、というふうにも私には読めた。

 発達障害以前の、定型発達を前提とした病理では、物語るという表現行為が治癒力としてもとても大きな意味を持っていた。統合失調症の場合は、表現象徴の力が強すぎて物語ってもらうと、精神や肉体が物理的に耐えられないことも多いとされているが。その領域ぎりぎりをかすめていたり行きつ戻りつするといったティピカルなアーティスト像をイメージするとわかりやすいかもしれない。)発達障害の時代になって、自分を振り返っての「物語りになっていかない」という現象に向き合うことになったのだが、わたしたちは、物語りを大切なものとしてきた心理療法アイデンティティーも賭けて『「物語にならない」という物語(こちら側のフィクション)』を、逆説的に発達障害という現象に充ててきた面もあるかもしれない。京大の、発達障害への心理療法的アプローチという研究プロジェクトから出ている先行の本2冊http://www.sogensha.co.jp/booklist.php?act=details&ISBN_5=11222 http://www.sogensha.co.jp/booklist.php?act=details&ISBN_5=11226 では、発達障害の特徴を「主体のなさ」としてとらえる視点が前面に出されており「主体の誕生」を目指す心理療法が提唱されてきた。自分を賭けて試行錯誤しながら行われている心理療法の現場実践や事例提示、またその現場の振り返りから「主体のなさ」「主体の誕生」という考察モデルを経て、そのことによってまた発達障害心理療法が支えられてきたことには言い尽くせないリスペクトを持っている。それだけに、「主体のなさ」→「主体の誕生」というとらえ方に、また今回の本でも「主体の脆弱性」→「主体の強化」というとらえ方がやはり読み取れるが、そのようなとらえ方に多くの妥当性を感じつつも、過去の「赤を想う」記事でも少し触れたが、主体という言葉に縛られてその妥当性を理解しようとするほどに苦しくなる自分を責めてもきた。

 今それについては、⑦で書いたように、『時代や環境と結びついてある今日的な「発達のあり方」を問題として自身に引き受けた者が、「自身の」発達のあり方を見いだし遂げていく』、というふうに私はとらえなおしている。(『』内の「発達」部分を「表現」と置き換えることはできるが、「主体」に置き換えることは今のところ自分はできないのだが、しないままでもいけるのではないかな、と思い出している。)

 そう考えると、心理療法という場に限らずとも、自身の発達(or 自身の表現)を見いだし続けていったと思える人や作品に気づくとき、鑑賞側もまた自分自身の発達や表現に対しての何らかの視座を得たりするのではないだろうか、などと言うのはどうにも固くてつまらない。幸田文「崩れ」については、ただふっと「ああ、そうだった」というような、快や緩みを、自分にはもたらしてくれた。言葉で自身の何かを表現するにあたっては物語という形式圧力がおそらくまだ強かったであろう時代に、既に山河の「崩れ」という現実そのものに惹かれ、見にも行き、ただそれを前にして自身が感じることをただ書いた。崩れを見たときの自分の情感は書かれているが、その情感は著者の「私の情感」なのであって、目の前の「崩れ」が何かの象徴になってしまうことはない。(②で引用したような、「日本の崩壊という宿命」というような表現を使っていてさえ、それは「崩れ」が象徴しているものではなく、「崩れ」「崩れ」のままに見せている大きなエネルギーへの感動表現としての彼女の情感であるように私には思える。)

 そんな「崩れ」にちゃんと出逢えた気になれるのに私は30年かかったけれど。読んで、今見る機会の多い富士山への見方がただ変わる。30年かかったことさえ含めてそのことを、ただ幸せだと思う。

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