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Fuji to Higanzakura

心理臨床ベースに少しずつ

崩れ⑥

Higanzakura視点

 以前の記事「赤を想う」「赤を想う」記事まとめ ①〜⑧まで - Fuji to Higanzakuraで、昨今のケースにおいて、クライエントさん側に、クライエントさんの主体という概念を想定しつづけていくことが実は苦手だ、ということを書いた。そこには「主体のありなし」という特性を、クライエントさん側のみの要素としてとらえるスタンスが実は苦手だ、という含みもあり、なぜならクライエントさんの呈するそのような特性は、「発達」障害や「発達」障害的(「発達」スペクトラム内の「発達」障害よりの側)という、一見クライエントさんという1個体が独立に抱え持つ生物学的レベルでの要因をも思わせる「発達」という言葉でとらえてはいても、その特性はクライエントさんをとりまく世界(土地、歴史、社会、文化、家族)といったものと独立ではなく、セラピーではそうした世界を体現することになるセラピストととも独立のものではないからだ。

 そういう点で、今回出た⑤の本についても、まず帯を見て「発達に何らかの脆弱性を抱えたクライエント」というとらえ方に、胸がぎゅっとなるような思いを持ったのだが、それはある意味で、「発達」という語の一般に持たれているようなイメージの強さとどう取り組んでいいのかを、ずっと負け戦のような思いで模索している中で、「発達に何らかの脆弱性を抱えたクライエント」というこのような表現も、クライエントさんの個体のみに病理を固着させてしまいやすい表現なのではないかと、早合点してしまったからだ。

 しかし、この本では、精神病理の時代的変遷をも丁寧にたどることで、学術的に淡々と、しかし一般感覚からすれば鳥肌ものにドラスティックに「発達」という概念のとらえ直しが行われており、「発達」という語の一般イメージとは異なって、そこでは、「発達」のあり方というものも、文化や時代の変遷と独立ではありえないものなのだ、と規定される。

 私たちは、同時代という同じメリーゴーランドの円盤上に共にのっているために、「発達」障害にしろ、「発達」になんらかの脆弱性があり発達障害的に見える何かにしろ、それが「クライエントさん個人が持つ」病理に一見見えやすくなっているのだ、ということにおそらくもっと意識的になっていい、ということを改めて感じさせてくれる論だった。

 そこに意識的になるというのは、治療者がメリーゴーランドから降りることではないしそれはできないことだ。ただ、その同じ円盤上にいるのだ、ということを知っていて意識的であれれば、それぞれの発達のあり方の違いは「通常の差異」としてとらえてお互いに関わり合える、という考え方になりえるのではないか。

 そしてそれは、普通の感覚的には、実はとても「反」自然な感覚だ。発達障害または発達障害的であることに本人や周囲が困惑しているというのは、本人にしろ周囲にしろ「この時代(メリーゴーランド)の病理」の害を自分は大きく被っている、という感じ方、つまり困っているのは自分のせいではない、という感じ方だが、それは自分の足許のメリーゴーランドの盤に根ざした自然でもっともな感じ方だ。携わっていく代表病理が発達障害の時代になって、クライエントさん(やそもそも一般的な人も)は、自分を振り返ることをしなくなった、ということが言われてきたが、自らを非発達障害的と感じている者にとっては、自分の困惑や不快は発達障害的な人たちのせいであり、発達障害的な人にしてみれば、自分の困惑は時代のせいであり自分のまわりの環境や他者のせいだ。今や、自らは非発達障害者とみなして発達障害的な人の特性を断じるあり方自体も発達障害的あり方でもあるので、もはや一律、自分の困惑や不快や生きにくさは、時代のせいであり自分のまわりの環境や他者のせい、と言っていい。そのような感じ方が、この時代においての「自然な」感じ方だ。確かに、幸せに生きていく上でそれは損か得か、その感じ方には愛情があるのかないのか、とは別のものだが、自分にとっての自然な感覚であり、自身の状況の中で論理的に考えたら「まちがっている」ということにもそれは決してならない。もしその感じ方を「まちがっている」と言われているように感じたら、自分にそう言っているように感じさせた人こそが、他者(自分)とコミュニケーションもとれない幸せになれない人、愛情のない人、と断じることさえできるので、どこにも破綻のない完全な感じ方と言えるだろう。

  今の時代にあっては、このような感じ方こそが、この時代に広く普遍的な自然な流れだ、ということを前提としてみれば、そのような流れとは異なって自分と対話にならず場を共有できそうにない他者がもしいたならば、この時代のこのような論理で成立しているはずの世界の中にはいないはずの人なのに、という感じ方までもが、自然な流れということになるだろう。(実際には、そのようなもっともで自然な感じ方をしていればしているほど、そうした他者と出逢ってしまう、ということになるのが苦しく切なく面白いところで、この時代の魂の動き、のようなものとして感じているけれど。)

 いないはずの人、この状況でいるべきではない人、そうあるべきではない人、と感じられる人に出逢ってしまったとき、その感じ方自体はとても自然なものであり、考え方としてのそのプロセスにはおそらく間違いもない可能性が高い。それなのに、目の前にそういう人が事実としている、というその事実を受け入れるとき「自明自然に広く普遍的な論理体系」と感じ信じてきたことを、「自分自身の」論理体系や価値観、ということとして( )に入れ直さなければいけない。これは本当に、どれほどの反自然的感覚の転回を要することなのか、と時に茫然としたりする。ちなみに、心理学的に言えば、そこで、「自分は(自分の気持ちや大事にしたいところと相容れない)この人とはいたくない」という「自身の」感覚や気持ちとして、そのような思いも生じるのであれば、否定的に見える思いであっても、「自分の」思いとしてそのように思えることは望ましいことであり、またそのような自分の思いにも従って生きられるようになることを私たちは願うものでもある。

 またもし、そんな相手とも、この人といたくない、ではなく、対話もし相手を知りたいともなったら、相手が病的なのでもなく自分が病的なのでもなく、相手と自分との断絶を、彼我の違いとして「通常の差異」 としてとらえなおしていくことが必要になる。この場合、感覚的には反自然であるだけに、双方に必要な共通土台の知的共有が必要という点からのアプローチなのが、臨床心理からの出発点ではないが西條剛央氏が体系化してきた構造構成主義と広い分野におけるその応用実践なのではないか、ということなども思ったりしている。心理療法の場面では、実際には、セラピストークライエント間において、必要な共通土台の知的共有というのは難しい。ただ、子どもの場合は、目の前に変な人が「いる」という「事実」を受け入れてくれやすかったりする。⑤の京大本、子どもの事例ものっていて面白いので、是非どうぞ。大人の場合も、同様と言えば同様で、自分自身をその場に晒して、異質なものに出逢っていただく、ようなことをしているのだと思う。

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メリーゴーランドもありそうだけれど。まだ中に入ったことはない。ここのジェットコースター、富士型になっていたとは知らなかった。