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Fuji to Higanzakura

心理臨床ベースに少しずつ

崩れ④

Higanzakura視点

「物語る」という行為には、また、ある感情を「この」生きている場や世界において生生しく感じていくということには、ある種の嘘が必要だ。

 同著者の「おとうと」という小説であれば、読み手側にも通底して迫ってくるのは、「切なさ」という強い感情だが、物語る、ということは、そのような感情が、読み手書き手に共通する場という世界で「生なもの」として生まれ、動きだす、ということでもある。

 このような物語の世界を成立させるためには、逆説的だが、そこを語りながらも同時に、言ってはならないこと、言うことができなくなることができていく、ということでもある。読み手の側から言えば、この物語の世界に乗って「切なさ」という感情を生きるためには、読み手としてもそこは問わない、そこには蓋をする、という領域ができていく、と言ってもいい。

 「おとうと」という小説では、同じ親を持つ環境で、同じこころの欠損を持つ者として、姉のげんと弟の碧郎は強い絆で結ばれているが、弟は不良仲間にも加わって身を持ち崩していき、欠損を壊れとして外に体現していく。そして病も発症し、姉のげんに看取られて逝く。以下は一つの例にすぎないけれど。

「同じようなこころの欠けを持ちながら、それを壊れのままに外に顕わしぶつかっていくこともし、誰か大切な人に(この場合は姉である本人のげんだが)こんなにも愛されて死んでいくのは、なぜ私(げん)ではないのか。」

 読み手側の私が、勝手にこのようなことを、もし感じたとしても、それには蓋をすることによって、また蓋をすることによってしか、この小説の「切なさ」という感情は生きられない。一方仮に、姉のげんに、そのように痛切な希望があったとしても、弟に向き合い共に生き「おとうと」を物語るということは、③で引用したように、そのような自分の叶わぬ思いを、そのような自分の「運命を」、「踏んで」その上に「立つ」ということだ。これは私のあげた卑近な思いの例だが、その他様々な思いも、踏んで生きる土台としていくことが、物語る、ということだ。

 私は最初に、ある種の嘘、という言い方をしたが、この世に生きる土台部分(の崩れや欠損)は、眺めもし、感じとって何かしらを思うことはあっても、ことさらには入り込めないであれるようになるというそのことは、健全な精神にあるとされる自我強度の顕われ方の一面でもある。ただしそのような自我機能は、精神機能の「発達」により、生物因と環境因が整えばそのように発現するものとされてきたものでもあるが、おそらくそのような形での発現はしていなくても、かなり意図的後天的な美意識のようなものによっても発現させられる場合もあり、前者は定型発達、後者は非定型発達(の一つの型)、というふうにも言えると思うが、10代の頃の私には、その違いはわからなかった。いや、どこかで感じていたようにも思うが、著者のそのような美意識は、生活全般の中での細かな日常の一つ一つの対象にも向けられていて、あたかも物語ってもいるかのように見えたその動きは、彼女の(美)意識の動き方の一つだっただけなのでは、と今は思えるが、当時は、闇はあってもそれを踏んで光へと向かうような人の物語を重ねてイメージすることがしにくい、もはや物語ではない「崩れ」という表現作品への移行は、私にはついていけずわからなかったのだろう。小説でなく随筆も読んでいたはずだが、著者が、何かと向き合ったときそこで賦活する家族との関係への思い出などが書かれているところを、自分の中でことさらに物語化させて読むことはしていても、もしかしたらそれよりもより広きにわたって本質的な、著者の、ただ対象(それが「崩れ」であっても)と向き合う(美)意識などは、感じられていなかったのではないだろうか。

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