読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Fuji to Higanzakura

心理臨床ベースに少しずつ

崩れ③

Higanzakura視点 ふりかえる

 中学のとき既に、相談職の心理の仕事をすると定めていた。そのような仕事が実際にあると知っていたわけではないがあるものとの確信感があり、臨床心理についても何も知らなかったが、自らを振り返って物語っていくことの力を信じていた、という気がする。幸田文の諸作品に嵌っていたのは、そんな中高の頃だった。

 幸田文さんについて言っているのではなく、「おとうと」という小説の中の登場人物、姉のげん、についてとしてなら、少し言ってもいいだろうか。 

 5感や感性のとても強い子が、親からの愛が薄いまたは愛はあるにせよ、その子にとってはちぐはぐであると、その子の中の何かしらが壊れる。それは必ずしも親のせいではないが、壊れるものは壊れる。けれど、もちろん気性もあるだろう、またその他の環境や時代的な背景もあって、げんのこころの壊れとしてある欠落なり空隙は、とてもきれいな硬質な輪郭を持っていて、むしろその欠落故に、その欠落から生まれる物語には凛とした輝きがある。同著者の随筆「みそっかす」に「 人には運命を踏んで立つ力があるものだ」と書かかれてもいる、まさにそのように。

 10代、臨床心理を志して夢見ていたその頃、このようなあり方を、自分の中の「臨床心理」(という言葉さえも知らなかったが)の理想モデルとしていたと思う。欠落はあれ自らを物語ることにもよって凛と輝き立つような。当時の自分の状態を、げんのようなこころの状態に類するものとしてなぞらえもしていたし、自分も、多くの他の場合も、きっとそのようにあれると思っていた。

 作品や表現の持つ力や魅力は多面的なものだ。だから、私が惹かれた幸田文の諸作品の魅力は上記のようなことだけではない。けれど当時の私は、主に、そのような面に惹かれていたそのためだろう、大地に根をはり、環境によってひずんだり歪んだりもするもののそれでも宇宙に向かって立つ各地の巨木を見て歩いて書かれたエッセー「木」についてまでは読めたのだが、その後に書かれている、この「崩れ」を、当時の私は読めなかった。

f:id:higanzakura109:20161116151659j:plain