Fuji to Higanzakura

料理簡易記録、ときどき、?

「赤を想う」記事まとめ ①〜⑧まで

① 正当化しようとせず、そこに入ってみる

 

 学会に出て事例を聞いた。印象的な事例だった。

 難しいのにうまくいったケースだった、とか、勉強になった、とかとは違う。どうし てその事例がそんなに印象的だったのかについて、そういうところで考えようとすると逃げていってしまう。正当化させてくれない。でも本来、「感じる」とは そういうことだ。主観的に、「自分にとっての」心理療法や心理臨床はどういうものなのか、を感じ考えることから逃げられなくなるような事例。

  理想のセラピスト像というのがあるとすれば、どんなケースを聞いても、どんなクライエントを前にしても、それは常に個別的でそれぞれではあるけれど、この 人だけ、このケースについてだけことさらに、ということにはならない意味で、同様の思いをそれぞれにかけられる、ということも入るだろうことを思うと、と りわけあるケースについて印象的に心に残ってしまうと感じるような気持ちの動きは、理想的セラピスト像からは外れている。

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② 私の名は赤

 

 ちょうど「私の名は赤」という小説を読んでいるのだが、このブログ記事タイトルを考えようとすると、「私の名は赤」と思い浮かんでしまう。その本についてを書くわけではないのに。

  学会内のシンポジウムで、日本人の主体のあり方は(自分の内側の何かとして感じられるようなものというよりむしろ)「境界」だろう、という話しなどもちょ うど出ていたが、世間的社会的にこうあるべき的なセラピスト像とか、セラピスト像なるものとかとは異なる、自身と対峙する生なセラピストと「出逢った」こ とを、クライエントが感じたのであろうとき、つまり心理療法ー子どもであればプレイセラピーの場ーにおいて、自身とセラピストとの「境界」が、その場にぶ わっと立ち上がり、それを感じ取ったのであろうということが起こったとき、クライエントさんが描画や箱庭で、ふっとその後、形のある「赤」を表現すること がある。大きかったりこれみよがしだったりするわけではない。けれど存在感のある小さな赤。そういうケースを以前も1度聞いたことがある。

 「境界」としての赤。境界、なのに、一つの形としてまとまりのある赤。私とあなたの断絶を、一つの形ある赤にして、セラピストの前に置く。私の名は赤。

 2度とも泣いた。

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③ 私との境界を、あなたととらえるしかない私たち

 

 私たちの分野では、「主体」という発想を手放すことがなかなかできない。表現してくれたこのような赤を、「クライエントの」「主体」の象徴としてとらえてしまう。そのことから私たちは自由になれない。

  わかりにくいことを言っている気がする。つまり、セラピーにおいて、クライエントさんは、異質な何者かとして自身に向き合ってきたセラピストに「出逢」っ たことで他者との「境界」を体験し、そこで生み落とすかのように示した「一つの形を持った赤」を、私たちは、クライエントさんの「主体」として、クライエ ントさんの「主体」がそこに生まれたかのように、とらえがちだ。「私たちセラピストとの」間や断絶が、結晶化されたようなものだけれど、そこから「私たち (セラピスト)」は抜け落ちて、それを「クライエントさんの」主体の象徴として、私たちはとらえているかもしれない。そこから、私たちは自由にはなれな い。

 ただ、何かが割り切れずに余り、それが苦しい。または、割り切られすぎて、苦しい。

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④ フェアではない。それは知っている。後でなら、かもしれないが。

 

 この苦しさは、あえて言えば「フェアではない」感だ。クライエントさんから見れば、そのようなとらえ方は「フェアではない」だろう。セラピストと の出逢いから生まれた表現を、セラピストから「私である」ということにされてしまうことは。けれど、むしろクライエントさん側は、そのアンフェアさえをも 承知した、と言っているかのような、一つの形として結晶化された赤。

 以下の表現は、親との関係で深い傷つきがあったり、そのため に、自分は自分の子どもに虐待してはいけないと自分に厳しくなっている場合などには、誤解にもつながりそうではあるのだが。子どもと向き合いな がら且つ自分自身にも誠実に子育てをしているお母さんが、「トラウマの一つや二つ私からもらうことについて、生まれてくる前の契約書にそのことさえも書き 込んで神様に渡した上で、この子はここに生まれてきてくれたと思っている。」というような表現をされているのを、どこかで読んだ記憶がある。親は子どもに トラウマくらい 与えていいのだと言っているのではもちろんなく、親であるなら子どもにとってトラウマとなるようなことをしてはいけない、子どもが虐待されたと感じられる ようなことは親は決してしてはいけないとするあまりに身動きできなくなってしまうのではなく、子どもが自分のもとに生まれてきたという付置を、そんなイメージの物語も作り信じながら、親子関係を作っていけている喜びと感謝が表現されていると思う。

 ただこのイメージは、「親にとって」とても大切なもの なのであって、子どもの側は子どもの側で親との関係について別の物語を作っていく。おそらく良好な関係であるほど(良好とはいえなくても深い関係の場合は あり、その場合も)、限りなくその二つの物語の要素は重なっていることはありえるし、その重なりは得てして強い情動や絆(結びつきであれ断絶であれ)の感覚を生むだろうが、それでも、 どんなに似ている物語であれ、それは別の物語だ。

 今回聞いた、クライエントさんが示した形ある赤は(そしてそれをクライエントさん側の 「主体」の象徴として私たちがとらえることは)、このイメージ表現で言えば、この世(セラピー場)に生まれてくる前に、そこに生まれてくることを選ぶほど のこの自分の大きな愛情やエロスに、十分に匹敵するだけの愛が得られるほどには、そこは純粋にフェアな世界ではありえないことまでをも承知して、それでもここ に来ると決めて神聖な何かに自ら記した契約書(とセラピストである私たちがとらえていること)に近いのではないか。

 そして私たちはただ、 それがどんなに私たち側に勝手な物語であれ、そういうわたしたち自身の物語を生きる、ということをしている。クライエントさんは、クライエントさん自身の物語を生きていくことを信じて。それぞれの物語で重なっている要素要素が、双方 同じくらいの「思いの密度」であると、もし感じてもらえるならそれはセラピスト冥利に尽きるが、そうした重なりの偶然は、あくまでも二つの物語上の要素 で、一つの物語の一致ではない。(ラ•トラヴィアータ 道を踏み外した女⑤ - Fuji to Higanzakura

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⑤ 私はどうするのか

 

 ④で書いたようなことは、私から見た、心理療法における「主体の誕生モデル」的な展開とはこういうことだ、という話しだが、私自身は、以前にもと ころどころで書いているように、そういう展開への心身耐性があまり強くない。強くないといっても、心理療法的展開というのは、セラピストにとっても意図を 超えて動くものなので、やっていたりはするけれど。

 セラピストにとってもとらえきれていないケース展開を振り返りつづけるなどの作業も通 して、より集合的な仮説モデルができていく。例えば、日本の、発達障害的な要素のあるケースではこういう展開になっていくなぁという幾つものケースの振り 返りから、「境界感」からの「主体」という、西洋近代的な自身の中心性に根ざすような主体感覚とは異なる「主体」を想定するなどのモデルもできてくると、 それは実際のケース展開とも一致して、なるほど、ということにもなり、それによって、主体誕生モデル展開にすすんでいくような自分の心理療法のあり方に対 し、セラピスト側に改めてまた自信のようなものが強化される。そういう場合はもちろんあるのだが、ただ私の場合はその路線だと、自信の強化にはならず反対にすりへっていってしまう。どうしてかはだいぶ悩んで、その理由についての理屈も色々自分の中に浮上させもしてきたが、いずれにせよこうしたケースにも出逢 うならば、自分の場合どうすれば、すりへらずにやっていけるのか。

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⑥ 主体という概念発想を牢でなく揺りかごにするには?

 

 ②で書いたように、このような形ある赤を見て泣いたのはなぜだろう。その赤を見たときに、そのクライエントさんが、他者や世界にどれほどの大きな 愛情をもっているのか、セラピストと出逢ったことでクライエントさん自身がそのことに気づいてしまったこと、さらにそのような愛はこの世ではぴたりとは報 われないことをも既にどこかで気づいて、それでもこの世を選んで生きてみる、それが私の愛だよ、というような、この人の愛情宣言のようなものが、その赤から、ざーっと入って来たからだ。そして、セラピストはやはり、この世でぴたりと合うようにはその愛には応えられない。それに応えるのは心中ということだ。 「1個体」としての「形ある赤」は、だから、あなたに出逢って気づいた自身の強烈な愛情欲求は表すけれど、応えてはもらわない、そこを私は生きる、とさえ 言っていた。

 以上は、その赤を前にしたときの私の妄想と言えるようなものだ。それは外れた妄想ではなかったが、ただ私はこのとき、やは り、クライエントさんはこういう人だ、こういう主体だ、ということをその赤という対象から解釈した、ということになる。そして、私のように前倒しで感じてしまった 場合、実は④で書いたように、結局セラピストはセラピストの解釈物語の中を、(半ば確信犯として)生きる、というのは難しくなる。ように思う。それでもするけれど。ただ少なくとも私は、それを苦しいと感じる。

  この「赤を想う」の記事は、西洋近代的な自身の中心性に根ざすような主体感覚とは異なる、境界的なところから立ち上がる主体感であろうとも、心理学の分野というのは、その人個人の「主体」という概念発想からは自由になれない、という ところで書いているが、私が感じる苦しさもつまりはそこにある。

 

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⑦ それはアートか?

 

 私たちは、主体という概念発想から完全に自由にはなれないのかもしれないけれど、でも実は、これまでも時々書いてきたように、分析心理学的な(ユ ング派的な)心理療法というのは、「表現」というものをとても大事なものとして扱う。今回のこの赤にしても、それはクライエントさんの「主体」のあり方と して解釈するより、なによりもまずセラピーの場に表された「表現」でもある、ということから感じていくこともできる。そうしてみると、私の苦しさは、だい ぶ違う。

 ⑥のように、あの形ある赤を「主体」の象徴として解釈するとき、私は、クライエントさんに対して、大きな畏敬にも近いリスペクト と、セラピーをきっかけに、愛として引き受けようとしている、愛としてしか引き受けようのない、この人がこの世を生きていく上で痛みとして(願わくば喜びとも共に)感じ続けていくであろう矛盾に、おそらく同情もしている。世の中や人との関係性から、また自分の症状などにもよって、傷ついて心理療法に来る多くのク ライエントさんは、確かにそういったリスペクトや同情を必要としており、一般見地では、そうした共感で癒されることをもってセラピーと認識されている部分 も大きい。私たちセラピスト自身にも自然な感覚としてそうある部分はあるが、その一方で、表現を重視する心理療法というのは、そうした関係性や症状、ひい てはそこからの傷つきや、それをもたらしている傷つきまでさえをも含めて、自己という、「その人の全体性」からの「表現」としてとらえようとするものでもある(ラ•トラヴィアータ 道を踏み外した女⑨ - Fuji to Higanzakura)。それはセラピスト側からだけの努力ではなく、クライエントさん自身も、関係性も症状も、そこからの傷つきも、それをもたらしている傷つきも、それらを自ら「表現としていくこと」を信じ守り促す場であろうとすることがその本質とも言える。

  ただ、このスタンスを突き詰めてとらえると、「心理学」としては微妙なことになってくる。確かにもともとユング心理学というのは、近代心理学の人間主体を 中心とした見方ではないのだが、そのようなユング「心理学」をもってしても微妙なところになる。私自身は、自分の実践に、「心理学」という枠からは独立の 領域を、少なくとも自分の中には作ることになってしまった。それは心理臨床か 周産期心理臨床セミナー② - Fuji to Higanzakura そのような自分のあり方が正しいかどうかではなく、自分にとっての流れだったとしか言いようがなく抱えていくしかないのだが。今は以下に、2016年度箱庭療法学会一般公開シンポジウムのチラシに使われていた文言を。

 ” ユングは、自分の「心理学」を「アート」だと言われて「アートではない」と応じているが、それはアートへの拒絶ではない。「心理学はアートではない」と言 い、相手からは「アートは心理学ではない」と言い換えされ、しかしこのような互いの否定を始まりとして、実はアートと心理学の創造的な対話の扉が開かれ、 そこに通底している魂が形を見せてくるのではないだろうか。その対話の新たな始まりが、ここにあるのかもしれない。”

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⑧ 本当は既にやっている

 

 とりわけ昨今のケースでは、もしかしたらアートスタンスが昔に比べて、より一層いるのかもしれないにせよ、自らがしていることが、心理学かアートか、という問いは後で振り返るときのことだ。この事例のセラピストさんも、昨今のケースにあたるセラピストさんも、皆どこかしら、その場の体感覚で、セラピー場での「表現」 を、必死でともに生きることをしている。

 もうちょっと書けそうでうんうんしてはみたのだけれど。。。

 今は、このくらい。

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