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Fuji to Higanzakura

心理臨床ベースに少しずつ

赤を想う⑦

Higanzakura視点

 私たちは、主体という概念発想から完全に自由にはなれないのかもしれないけれど、でも実は、これまでも時々書いてきたように、分析心理学的な(ユング派的な)心理療法というのは、「表現」というものをとても大事なものとして扱う。今回のこの赤にしても、それはクライエントさんの「主体」のあり方として解釈するより、なによりもまずセラピーの場に表された「表現」でもある、ということから感じていくこともできる。そうしてみると、私の苦しさは、だいぶ違う。

 ⑥のように、あの形ある赤を「主体」の象徴として解釈するとき、私は、クライエントさんに対して、大きな畏敬にも近いリスペクトと、セラピーをきっかけに、愛として引き受けようとしている、愛としてしか引き受けようのない、この人がこの世を生きていく上で痛みとして(願わくば喜びとも共に)感じ続けるであろう矛盾におそらく同情もしている。世の中や人との関係性から、また自分の症状などにもよって、傷ついて心理療法に来る多くのクライエントさんは、確かにそういったリスペクトや同情を必要としており、一般見地では、そうした共感で癒されることをもってセラピーと認識されている部分も大きい。私たちセラピスト自身にも自然な感覚としてそうある部分はあるが、その一方で、表現を重視する心理療法というのは、そうした関係性や症状、ひい てはそこからの傷つきや、それをもたらしている傷つきまでさえをも含めて、自己という、「その人の全体性」からの「表現」としてとらえようとするものでもある(ラ•トラヴィアータ 道を踏み外した女⑨ - Fuji to Higanzakura)。それはセラピスト側からだけの努力ではなく、クライエントさん自身も、関係性も症状も、そこからの傷つきも、それらをもたらしている傷つきも、それらを自ら「表現としていくこと」、を信じ守り促す場であろうとする、というのがその本質とも言える。

 ただ、このスタンスを突き詰めてとらえると、「心理学」としては微妙なことになってくる。確かにもともとユング心理学というのは、近代心理学の人間主体を中心とした見方ではないのだが、そのようなユング「心理学」をもってしても微妙なところになる。私自身は、自分の実践に、「心理学」という枠からは独立の領域を、少なくとも自分の中には作ることになってしまった。それは心理臨床か 周産期心理臨床セミナー② - Fuji to Higanzakura そのような自分のあり方が正しいかどうかではなく、自分にとっての流れだったとしか言いようがなく抱えていくしかないのだが。今は以下に、2016年度箱庭療法学会一般公開シンポジウムのチラシに使われていた文言を。

 ”ユングは、自分の「心理学」を「アート」だと言われて「アートではない」と応じているが、それはアートへの拒絶ではない。「心理学はアートではない」と言い、相手からは「アートは心理学ではない」と言い換えされ、しかしこのような互いの否定を始まりとして、実はアートと心理学の創造的な対話の扉が開かれ、 そこに通底している魂が形を見せてくるのではないだろうか。その対話の新たな始まりが、ここにあるのかもしれない。”

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