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Fuji to Higanzakura

心理臨床ベースに少しずつ

赤を想う④

Higanzakura視点

 この苦しさは、あえて言えば「フェアではない」感だ。クライエントさんから見れば、そのようなとらえ方は「フェアではない」だろう。セラピストとの出逢いから生まれた表現を、セラピストから「私である」ということにされてしまうことは。けれど、むしろクライエントさん側は、そのアンフェアさえをも承知した、と言っているかのような、一つの形として結晶化された赤。

 以下のような表現は、親との関係で深い傷つきがあったり、そのために、自分は自分の子どもに虐待してはいけないと自分に厳しくなっている場合などには、誤解にもつながりそうではあるのだが。子どもと向き合いな がら且つ自分自身にも誠実に子育てをしているお母さんが、「トラウマの一つや二つ私からもらうことについて、生まれてくる前の契約書にそのことさえも書き込んで神様に渡した上で、この子はここに生まれてきてくれたと思っている。」というような表現をされているのを、どこかで読んだ記憶がある。親は子どもにトラウマくらい 与えていいのだと言っているのではもちろんなく、親であるなら子どもにとってトラウマとなるようなことをしてはいけない、子どもが虐待されたと感じられるようなことは親は決してしてはいけないとするあまりに身動きできなくなってしまうのではなく、子どもが自分のもとに生まれてきたという付置を、そんなイメージの物語も作り信じながら、親子関係を作っていけている喜びと感謝が表現されていると思う。

 ただこのイメージは、「親にとって」とても大切なものなのであって、子どもの側は子どもの側で親との関係について別の物語を作っていく。おそらく良好な関係であるほど(良好とはいえなくても深い関係の場合はあり、その場合も)、限りなくその二つの物語の要素は重なっていることはありえるし、その重なりは得てして強い情動や絆(結びつきであれ断絶であれ)の感覚を生むだろうが、それでも、どんなに似ている物語であれ、それは別の物語だ。

 今回聞いた、クライエントさんが示した形ある赤は(そしてそれをクライエントさん側の「主体」の象徴として私たちがとらえることは)、このイメージ表現で言えば、この世(セラピー場)に生まれてくる前に、そこに生まれてくることを選ぶほどのこの自分の大きな愛情やエロスに、十分に匹敵するだけの愛が得られるほどには、そこは純粋にフェアな世界ではありえないことをも承知して、それでもここに来ると決めて神聖な何かに自ら記した契約書(とセラピストである私たちがとらえていること)に近いのではないか。

 そして私たちはただ、それがどんなに私たち側に勝手な物語であれ、そういうわたしたち自身の物語を生きる、ということをしている。そしてクライエントさんは、クライエントさん自身の物語を生きていくことを信じて。それぞれの物語で重なっている要素要素が、双方同じくらいの「思いの密度」であると、もし感じてもらえるならそれはセラピスト冥利に尽きるが、そうした重なりの偶然は、あくまでも二つの物語上の要素の類似で、一つの物語の一致ではない。(ラ•トラヴィアータ 道を踏み外した女⑤ - Fuji to Higanzakura

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