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Fuji to Higanzakura

心理臨床ベースに少しずつ

赤を想う②

Higanzakura視点

 ちょうど「私の名は赤」という小説を読んでいるのだが、このブログ記事タイトルを考えようとすると、「私の名は赤」と思い浮かんでしまう。その本についてを書くわけではないのに。

 学会内のシンポジウムで、日本人の主体のあり方は(自分の内側の何かとして感じられるようなものというよりむしろ)「境界」だろう、という話しなどもちょうど出ていたが、世間的社会的にこうあるべき的なセラピスト像とか、セラピスト像なるものとかとは異なる、自身と対峙する生なセラピストと「出逢った」ことを、クライエントが感じたのであろうとき、つまり心理療法ー子どもであればプレイセラピーの場ーにおいて、自身とセラピストとの「境界」が、その場にぶわっと立ち上がり、それを感じ取ったのであろうということが起こったとき、クライエントさんが描画や箱庭で、ふっとその後、形のある「赤」を表現することがある。大きかったりこれみよがしだったりするわけではない。けれど存在感のある小さな赤。そういうケースを以前も1度聞いたことがある。

 「境界」としての赤。境界、なのに、一つの形としてまとまりのある赤。私とあなたの断絶を、一つの形ある赤にして、セラピストの前に置く。私の名は赤。

 2度とも泣いた。

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