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Fuji to Higanzakura

心理臨床ベースに少しずつ

伊豆の長八美術館⑤

Higanzakura視点

 オタクという現象構造にしろ、芸術という名の枠にしろ、それぞれ守りではあるわけだが、自分の内にしろこの世ではないところと、この世とを貫く「表現」、そういう表現の萌芽が、こうしたこの世的なトリック構造で、もしがっちりと守られきってしまったら、 この世に「表現」は生まれなくなる。

 ところで、実は発達障害の構造も、そういう「生まれにくさ」からとらえる見方モデルがあり、その場合は、生まれる、ということに向かう心理療法となっていくと言える。実際、心理療法的展開というのは、例えば「生まれない」「生まれにくい」というイメージの力が一度動きだしたら、クライエント自身やセラピストの思いとはもはや独立に、この世的な意味では本当に非常に危ないところも通って「生まれる」に向かって動きが展開していくということにもなる。

 そういう事例も聞いたりしながら、そこで起こったことを、自分の言葉で解釈しなおすなども通して、ああ「表現」というものはそういうものだった、と「表現」というものの根源的イメージを自分に刻むことになっていった体験は私にとってとても大事なものとなっている。その一方で「生まれにくくしている構造から出る誕生」を心理療法モデルとしてそれを目指すのは、自分の経験実感から言えば、それをするには、この世に生身の肉体を持つ人には(クライエントにもセラピストにも)負担が大きいと感じ出してもいる。そういう自分の感じ方が正しい、というのではなく、「閉じたところから出る主体の誕生」モデルが心理療法的には正しいとしても、私には、私の心身的に無理なのだ、ということを一度認めてみる。自分はできないということを、悔しいような哀しいようなだけれど認めてみるところから、振り返りなおしたりいきつもどりつしてみるうちに、最近少し、オタク現象の構造、発達障害の構造というものは、大切なものが生まれにくくなっているガチガチのものではなく、ゆりかごのようにすることもできて、そこから、「表現」(ここを「主体」とは言わない)は生まれることを感じられる(信じられる)ようになってきた。芸術という守りからも表現はもちろん出てきたし、自称「オタク」の方でクリエイティブな方はもはや大勢いる。自分が発達障害であることを土台に、まさにこの世的なところの外からの「表現」をこの世に生み出している方もいる。その方のブログをよく見に行く。

 大回りしたしたけれど、長八さんの世界にもどる。

 

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 こちらの長八さん作の龍は漆喰鏝細工ではなくて木彫らしい。松崎町にある明治創設の岩科学校。

 

同記事まとめて①〜⑦

伊豆の長八美術館 記事まとめ①〜⑦ - Fuji to Higanzakura