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Fuji to Higanzakura

心理臨床ベースに少しずつ

伊豆の長八美術館④

Higanzakura視点

 オタクという表現には、一つの次元内でバランス感覚として機能する「卑下」が入っている。違う角度から言い換えると、オタクという現象では、卑下 によって、自分が多大な労力を投下している行為の意味が問われない安全な次元が作られている。

 ここでちょっとわざと大上段的に、「表現」というものは、従来的な 生活や文化に役立つことや、時に人や時代からの評価までをも含む「この世的な意味」縛りから独立に、自身の内発的動機からの労力を用いる行為によって、本 人の聖域(美の追求の仕方等)が外に立ち顕れてくること、それが結果としてこの世や自分自身に新しい意味や価値を生み出すことになるもの、と言ってみるとしたらどうだろう。物事や事物の従来の意味のその向こう側の本質のようなものが、自分の脳髄の中にあるように結びついて、自身の内発的働きであるかのように表現される、と言い換えてもいい。

 心理療法において、表現を重視するのも、根本的にはこのように考えているからであると思っているし、私も究極的なところではそう考えている。それに対してオタクという現象は、この世のものとは言えない何かを、自分の内側から、この世に生み出す営みではなく、卑下によって、その何かの神聖さは、この世的な( )に入れられて安全に保留されるという点で、「表現」にはあたらないと言ってみることは簡単だが、では、そんな究極的な「表現」は果たしてダイレクトにできるものなのか、というのは難しいところで、実は「アート」や「芸術」というものも、その「名」の「枠」の力によって、この世的に、ある程度安全な不可侵域が担保される、という構図をやはりもっている。こういうとらえ方をしたとき、オタク文化と、芸術という名のもとの活動は、「この世的に聖域を担保する」という構図は双方にあるけれど、そのための方法が違うもの、ということになる。

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同記事まとめて①〜⑦

伊豆の長八美術館 記事まとめ①〜⑦ - Fuji to Higanzakura