Fuji to Higanzakura

料理簡易記録、ときどき、?

2016.10.22 イーストウッド世界に、ある視点から入ってみた。。。記事まとめ①〜③

① 怒りのままでなくノスタルジーでなく

 

 クリンスト•イーストウッド監督の「ハディソン川の奇跡」を見た。面白かった。

 ラ•トラヴィアータ 道を踏み外した女③ - Fuji to Higanzakura

で、「ヘンな日本美術史」の一部分について、あくまで自分はこうとらえた、ということでだが、以下のようにまとめたことがあったが。

”  うろ覚え記憶からだが以下、山口晃氏の「ヘンな日本美術史」の中から。白熱するベースボールなりなんなりの試合があって、それをスタジアムで観客が見て感動興奮する。この場合、その試合が作品。試合を見て興奮している観客のいるスタジアムごと、メタ視点で作品にしてしまうという動きの始まりとして有名なの が、便器を展示して泉と称したマルセル•デュシャンの作品。以降意識のメタ化はどんどん進んでいて、そのうち人類は地球の裏側に寄せ集まって窒息死するし かなくなるんじゃないかと思うが、そういうメタ化へメタ化へと向かう意識の流れは流れとして止められるものではないけれど、その流れの中にあっても、それ でもそもそも「試合」が面白い、という感覚は大事なのでは?、みたいなことが書かれていたと思う。”

 「ハディソン川の奇跡」だが、上記のような、近代的なメタ化意識への流れの中で、そこをどう生きるか、ととらえてみるのはどうだろうか。飛行機を咄嗟の英断によってハディソン川に着水させ乗客乗組員全員をサバイブさせたとして民衆が感動興奮し、その機長が英雄となっている状況にあって、その機長の判断は、むしろ乗客を無駄 にとんでもない危険に晒したことであり、そこでたまたまに全員存命だったからというだけで、結果的に英雄的パフォーマンスと民衆に誤解釈されて騒がれてい るだけという現象なのかもしれず、もっと適切妥当な判断があったのではないか、と最新のシュミレーション技術も駆使して徹底調査していく側の流れを、上記 の近代的なメタ化意識への流れととらえてみる、というふうに。

 こういう機長を追いつ めていってしまう現代社会への怒りも、イーストウッド監督の創作モチヴェーションにあったのでは、という推測もあると聞いた。確かに、その場合、メタ化意識としての検証調査側は、人として何か大事なものをことさらに無視しているといった感じの、観客側からは否定的な印象をもたれるものとして表現されるだろうし、映画でも少しそんな感じになっている。実際のところ、機長は、この時代的な流れの中で、比喩的に言えば『生き埋め』にされていった可能性も十二分にあったろうことを思うとき、メタ化意識の流れは時代の理(ことわり)だとし ても、また、その時代に生きる自分も好むと好まざるとに関わらず気づきもせずにメタ化意識側にもなっていることはあるはずだが、怒り的な何かは、私も自分の中に感じている。

 ただその「怒り」を、そういう時代的流れを自分とは別のところにある悪として単に否定するだけにしてしまったら、きっ と現実と相容れない。それはあまり害のない状態でも、今の時代に生きることをやめた懐古主義ということになるだろう。けれどちなみに私は、「生き埋め」に なるのなんてもちろん怖いしイヤだし、とにかくそんなこととは無縁のつもりで、懐古主義であることさえ気づかないままにぼんやり生きてホントは逃げ切りたい。

 でももう自分自身は、それはできなくなってしまっている状態なのだとしたら、でも子どもには、人が生きる意味や情動があるべきものとしてあるような、そんな世界でずっと生きててほしいと願うだろうし、そのためにそんな世界も守るべく、親としてできるだけのことをしたい、となるだろ う。

 それでも子ども自身も、ただ守られている状態では、そういう世界にはもう居続けられないんだと自ら気づいてしまったら? そのときは、「子ども」ではなく「同士」になるんだろうか。

 

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 マラリアで滅んだ貴族の城館跡廃墟を用いた庭園。イギリスBBC番組で庭師さんが「世界で最も美しい庭園」と言っていた。アメリカザリガニとの闘いだそう だ。おそらく西洋タンポポともだろう。在来種も、すべてを席巻していく外来種も同じく生き物だ。悪とするのではないがここは守らせていただく。ノスタル ジーではない。自ら美を欲し作ってその中を生きていく、ということ。

 

② 現代という魂の働きはベースとしては不親切 

 

 機長は、乗客や自分らも守るべく、離陸から着水までの5分弱の短い間に、経験と実感を総動員させて究極の判断をしてそれを完遂する。そのことを追求し追いつめていくことについて、見ている側は、まともな人間だったらそう感じるでしょう的なかなり集合的な感覚で「それはおかしい」と思うわけだが、そ ういう、人の一定方向に動く情動自体を、メタ的に俯瞰してとらえ、そこにあるとそれぞれが思っていた、人としての共通普遍真実的な意味存在を解体していく のがメタ化意識だ。だからそれはもう底なしであって、人が生きる「意味」のある世界を守りたいといっても、「人としておかしい」という感覚から「だからそれは間違っている」というように証明しようとしても決してできない。基本的に勝ちのとれない戦であって、底なしに自分の存在の意味がなくなっていく世界の中で、そのことに「それはおかしい」感だけで反応すると、それはヒステリーになり、あなたがおかしい、となる構造に現代意識というのはなっている。

  ところで機長本人は、情動的なところから怒れる余裕はなく、あれでよかったはずだという自身の確信感もろともに「生き埋め」となっていく可能性も覚悟し闇へと落ちていくようなその底なし感の中から、ふっと、メタ化意識の論理構造にも人や生き物としての「ファクター」をのせられそうな方法を、思いつく。そう いう意味で、彼は、自分を追いつめる現代の論理を否定してはおらず、限りなくそこに入り込んだ末に、ある種の光明のようにそれを思いつくのであり、この段階で既に、クリエイティビティーの領域で起こるようなことだと思うのだが、その方法からさえも「形式」だけが実施されるものとなっていて人としての何かが抜け落ち、同じようなシュミレーション結果とる。

 それは、現代意識の自律的な理としての動きなのか(この場合は怒れない)、それとも、 現代意識から利を得ている人(現代に生きていれば皆これはしているが)による「人為的意図的な作為」なのか(この場合は、その作為を暴くのが自分を守るこ とになることがある)、というこの2つの違いの境は、けれど実は明確に客観的にあるようなものではない。だからそこに意図的作為があることを暴くことに 踏み込むかどうかは、相手が悪だと信じてするのではなく、ただ異なる自分自身の感覚が信じられるかということと、今このタイミングでだ、ということへの 「賭け」なのだが、機長はこの賭けに勝ち、そこから現象が反転していく。 

 機長は、最終的にも、自身の判断が100パーセント正しかった ことを客観的に証明したわけではない。そもそももともとの追求側のシュミレーションにしても、シュミレーションが100パーセント正しいと言っていたわけ ではなく、前例などから総合的に考えたら最もオーソドックスな空港に戻るという判断が、これだけシュミレーションで安全にできるという結果が出ていること から見れば、それが高確率でできたと推測でき、ハドソン川に着水しようなどという大それた試みよりもよほど安全確率は高いと判断される上、たまたま皆無事 だったとはいえ、救助のための社会的リソースの莫大な動員などは、社会経済へ1個人が徒にダメージを与えたことにすぎないととらえることもできる(そうで あれば保険会社は莫大な損失補填を払わなくてもよい)、という見方への「説得力」を、単にシュミレーション結果が高めている、というだけのことだ。だから それに対して、機長の側は、人命を守るという点からの判断、という見方への「説得力」を、それ以上に示せるかどうか、なのだ。

 機長の「賭け」から、客観性を求めてメタ化していく現代的な意識からの事象検証の世界だった審査会の場が、身体的な生身のレベルで「腑」に落ちて納得するという、人 の「こころ」がパラメータとして入ってくるような「説得術」が展開している世界へと、場が変容する。「説得術」というと聞こえが悪いかもしれないが、メタ化意識は、機長の確信感をも底なしに呑み込んでいく圧倒的なものではなく、機長側の意識とそれは、対等なものとなりえる場となった、ということだ。

  追いつめられるところまで追いつめられ、他に道はないというところを冷静に判断応答し、現象を見事に反転させたこの審査プロセスの付置は、飛行機着水判断 とその完遂の付置ともパラレルに重なり、それがいったいどういうことだったのかが立体的に(身体レベルで)浮上してくることになる。 

 そしてそれまで追求側だった人にも、機長判断に肚の底から納得したとき、人の「こころ」を持っていることが見えてくる。

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③星を欲する者だけが

 

 機長の咄嗟の英断でハドソン川に飛行機が無事に着水したという出来事は、私はかなり強烈な印象で覚えていて、これまではそれについて「すごい機長 がいたものだ。そんな大胆な英断をしてそれを無事に実現してしまうなんて。世の中って、テロやら虐待やら悲しいことが一杯あるけど、やっぱりたまにすごい な。」というファンタジーの中にいた。①で書いたような、うすぼんやりした自分でも気づいていない懐古主義的ファンタジー世界だ。私が本当にそのままそこ にいたいのだったら、この映画は見なかったことにしておけばいい。

 人が生きる「意味」のある世界を守る、というのはどういうことか。「世 の中は捨てたものじゃない。そこを生きる意味はある。」と感じられるような世界を、人が得られるようにすること、なのだとしたら、ハドソン川に無事着水と いう実際のイベントを知った時、私は既にそれはもらっている。この映画はむしろ反対に、「生きる意味や希望は、世の中から与えられていいはずだ、というこ とが前提のそういうファンタジーは、実は現代社会の中では覆されるものだけど、そこをどう生きる?」ということに向き合うことになる。

 機長は、自身が英雄であることを否定する。「アテンダント、副機長、レスキューの人たち、あらゆるどの一要素が欠けても全員サバイブはありえなかった」と。もちろん乗客自身らもだ。

 「現代社会で人のこころを持ってサバイブするというのは奇跡だが、君も奇跡実現の一要素としてそれをつくり出したくはないか?」

  以前、どこで読んだのか、希望のある人は星を眺め、絶望している人は星を欲する、という印象的な表現を思い出した。

 星を欲する者だけが星をつくることができる。

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  そしてそのことは、自分が子どものように愛しまれている存在として、希望や喜びをも持てるようにと、世の中から守られていると感じる、そういうファンタ ジーを持たない、ということではきっとない。おそらくむしろ反対だ。私が一応女性であるため、いわゆる「おんなこども」の部類に入るからでもなくて、それは成人男性でも同様に。「自分は世の中に守られてもいいはずだ」と「自分は守られている感」というのは異なるもので、「自分は守られている感」は、自分が、自分も参加してつくっている奇跡の一要素、と感じたときに感じるものだから。

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