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Fuji to Higanzakura

心理臨床ベースに少しずつ

イーストウッド世界に、ある視点から入ってみた。。。③

Higanzakura視点

 機長の咄嗟の英断でハドソン川に飛行機が無事に着水したという出来事は、私はかなり強烈な印象で覚えていて、これまではそれについて「すごい機長がいたものだ。そんな大胆な英断をしてそれを無事に実現してしまうなんて。世の中って、テロやら虐待やら悲しいことが一杯あるけど、やっぱりたまにすごいな。」というファンタジーの中にいた。①で書いたような、うすぼんやりした自分でも気づいていない懐古主義的ファンタジー世界だ。私が本当にそのままそこにいたいのだったら、この映画は見なかったことにしておけばいい。

 人が生きる「意味」のある世界を守る、というのはどういうことか。「世の中は捨てたものじゃない。そこを生きる意味はある。」と感じられるような世界を、人が得られるようにすること、なのだとしたら、ハドソン川に無事着水という実際のイベントを知った時、私は既にそれはもらっている。この映画はむしろ反対に、「生きる意味や希望は、世の中から与えられていいはずだ、ということが前提のそういうファンタジーは、実は現代社会の中では覆されるものだけど、そこをどう生きる?」ということに向き合うことになる。

 機長は、自身が英雄であることを否定する。「アテンダント、副機長、レスキューの人たち、あらゆるどの一要素が欠けても全員サバイブはありえなかった」と。もちろん乗客自身らもだ。

 「現代社会で人のこころを持ってサバイブするというのは奇跡だが、君も奇跡実現の一要素としてそれをつくり出したくはないか?」

 以前、どこで読んだのか、希望のある人は星を眺め、絶望している人は星を欲する、という印象的な表現を思い出した。

 星を欲する者だけが星をつくることができる。

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 そしてそのことは、自分が子どものように愛しまれている存在として、希望や喜びをも持てるようにと、世の中から守られていると感じる、そういうファンタジーを持たない、ということではきっとない。おそらくむしろ反対だ。私が一応女性であるため、いわゆる「おんなこども」の部類に入るからでもなくて、それは成人男性でも同様に。「自分は世の中に守られてもいいはずだ」と「自分は守られている感」というのは異なるもので、「自分は守られている感」は、自分が、自分も参加してつくっている奇跡の一要素、と感じたときに感じるものだから。

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同記事まとめ①〜③

higanzakura109.hatenablog.com