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Fuji to Higanzakura

料理簡易記録、もしかしたら、心理臨床

イーストウッド世界に、ある視点から入ってみた。。。①

Higanzakura視点

 クリント•イーストウッド監督の「ハディソン川の奇跡」を見た。面白かった。

 ラ•トラヴィアータ 道を踏み外した女③ - Fuji to Higanzakura

で、「ヘンな日本美術史」の一部分について、あくまで自分はこうとらえた、ということでだが、以下のようにまとめたことがあった。

” うろ覚え記憶からだが以下、山口晃氏の「ヘンな日本美術史」の中から。白熱するベースボールなりなんなりの試合があって、それをスタジアムで観客が見て感 動興奮する。この場合、その試合が作品。試合を見て興奮している観客のいるスタジアムごと、メタ視点で作品にしてしまうという動きの始まりとして有名なの が、便器を展示して泉と称したマルセル•デュシャンの作品。以降意識のメタ化はどんどん進んでいて、そのうち人類は地球の裏側に寄せ集まって窒息死するし かなくなるんじゃないかと思うが、そういうメタ化へメタ化へと向かう意識の流れは流れとして止められるものではないけれど、その流れの中にあっても、それ でもそもそも「試合」が面白い、という感覚は大事なのでは?、みたいなことが書かれていたと思う。”

 「ハディソン川の奇跡」だが、上記のような、近代的なメタ化意識への流れの中で、そこをどう生きるか、ととらえてみるのはどうだろうか。飛行機を咄嗟の英断によってハディソン川に着水させ乗客乗組員全員をサバイブさせたとして民衆が感動興奮し、その機長が英雄となっている状況にあって、その機長の判断は、むしろ乗客を無駄にとんでもない危険に晒したことであり、そこでたまたまに全員存命だったからというだけで、結果的に英雄的パフォーマンスと民衆に誤解釈されて騒がれているだけという現象なのかもしれず、もっと適切妥当な判断があったのではないか、と最新のシュミレーション技術も駆使して徹底調査していく側の流れを、上記の近代的なメタ化意識への流れととらえてみる、というふうに。

 こういう機長を追いつめていってしまう現代社会への怒りも、イーストウッド監督の創作モチヴェーションにあったのでは、という推測もあると聞いた。確かに、その場合、メタ化意識としての検証調査側は、人として何か大事なものをことさらに無視しているといった感じの、観客側からは否定的な印象をもたれるものとして表現されるだろうし、映画でも少しそんな感じになっている。実際のところ、この機長は、こうした時代的な流れの中で、比喩的に言えば「生き埋め」にされていった可能性も十二分にあったろうことを思うとき、メタ化意識の流れは時代の理(ことわり)だとしても、また、その時代に生きる自分も好むと好まざるとに関わらず気づきもせずにメタ化意識側にもなっていることはあるはずだが、怒り的な何かは、私も自分の中に感じている。

 ただその「怒り」を、そういう時代的流れを自分とは別のところにある悪として単に否定するだけにしてしまったら、きっと現実と相容れない。それはあまり害のない状態でも、今の時代に生きることをやめた懐古主義ということになるだろう。けれどちなみに私は、「生き埋め」になるのなんてもちろん怖いしイヤだし、とにかくそんなこととは無縁のつもりで、懐古主義であることさえ気づかないままにぼんやり生きてホントは逃げ切りたい。

 でももう自分自身は、それはできなくなってしまっている状態なのだとしたら、それでも子どもには、人が生きる意味や情動があるべきものとしてあるような、そんな世界でずっと生きててほしいと願うだろうし、そのためにそんな世界も守るべく、親としてできるだけのことをしたい、となるだろう。

 それでも子ども自身も、ただ守られている状態では、そういう世界にはもう居続けられないんだと自ら気づいてしまったら? そのときは、「子ども」ではなく「同士」になるんだろうか。

 

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 マラリアで滅んだ貴族の城館跡廃墟を用いた庭園。イギリスBBC番組で庭師さんが「世界で最も美しい庭園」と言っていた。アメリカザリガニとの闘いだそうだ。おそらく西洋タンポポともだろう。在来種も、すべてを席巻していく外来種も同じく生き物だ。悪とするのではないがここは守らせていただく。ノスタルジーではない。美を欲し作ってその中を生きていく、ということ。

 

同記事まとめ①〜③

higanzakura109.hatenablog.com