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Fuji to Higanzakura

料理簡易記録、もしかしたら、心理臨床

ラ•トラヴィアータ 道を踏み外した女⑨

Higanzakura視点

 人と通じ合える象徴として機能するような言語獲得の遅れ、ということを思い浮かべるとわかりやすいかと思うが、発達障害は、その本質的特徴を非常に大きくとらえると、イメージ(象徴)機能が成立しない、ということと言える。発達障害の現象というのは、まさにイメージの力によって展開する心理療法にとって、心理療法もその土台を踏み外させられるところ、イメージの彼岸、ともいえるデットポイントだった。

 それでも心理療法は、「イメージにならない、ということを、どうイメージするか」ということをし、「イメージのデットポイントというイメージ」を逆手にとることさえする。それぞれが自分の実践を通して模索してきた。

 ちなみに「発達障害」という言葉は、本来なら通常の精神「発達」に伴って得られるはずの精神機能がその個体に認められにくい、ということを連想させる表現だ。この連想の見方は、「健常発達からの偏倚」モデルであり、この現象がその名で流布しているのは、そのモデルでのとらえ方が一般共通見解が得られやすい、ということだろう。精神機能の偏りー社会的には「遅れ」ということになったりするわけだがーを、その特徴をふまえた上での特別な教育や訓練によって健常状態に近づけるというアプローチが療育モデルであり、また、特徴を周囲の人が理解することによるサポートシステムでQOL(生活の質レベル)をあげるというアプローチもあり(発達障害が背景にある鬱やその他の精神症状などに医療が対応するなどもここに入るだろう)、実際、発達障害への援助としては現在これらが主流である。

 一方、心理療法のアプローチはそれらとは異なっており、もともと病気などの症状までをも、その人を全体としてみたときの自己全体(それは生物的な個体単位のレベルにとどまらない)からのなんらかの「表現」として、象徴的にその「表現」をとらえていく自身の気づきや振り返りを促すものだ。しかし発達障害の症状や訴えというものは、その人の自己の表現として象徴的にとらえらることが難しい、ということが言われてきた。

 ところで、発達障害は確かに色々な典型的特徴などが診断の目安としてあげられてはいるが、「象徴機能のあり方」という、その大きな本質的特徴にも気づけるようになると、発達障害児的な典型特徴などは示してはいない大人の郡も、次々と発達障害のくくりに入っていくことになった。それは、自閉症スペクトラムという精神医学領域で重要な知見となっている言葉が、一般にも流布されるようになってきていることともパラレルなところがあるかもしれない。その考えは、もともとはそれぞれ別々なところからとらえて概念生成されてきた、自閉症アスペルガー症候群には、自閉症的要素が連続体(スペクトラム)としてあるととらえるモデルであって、私がその自閉症スペクトラムという概念を習ったときには、その連続体が健常者まで続くものという考えはそこには含まれていなかったと思うのだが、今、日本語のネット検索のレベルで見ると、自閉症スペクトラムという概念は、健常者と自閉症をわける境は客観的な何かとしてあるわけではない、というとらえ方にまでつなげられていることも多いようだ。だからそのとらえ方は、もともとの「自閉症スペクトラム」の概念からすれば、広くとらえ過ぎ、ということではあるのだが、そのような広いとらえ方が、かなり多くの人にとっての主観的な実感覚になりつつあるのだろうとは言えるだろう。さらには、実はそもそも心理療法というものが、先に述べたように、クライエントが呈している病理症状までをも、病者≠健常者ということからは自由な、相容れないはずのその二つさえをも貫く普遍性のあるイメージ(象徴)としてとらえようとしていく試みであるので、発達障害心理療法は難しいとしながらも、その試みを続けてきた立場からすると、「自閉症スペクトラム」という概念の解釈としてとは別に、そのように広くとらえる考えを否定するものではなく、ユング派的な「元型」という言葉を使えば、この世では、自閉症的なこととして立ち現れることの多い「何か」が、普遍的な元型イメージとして「動き出す」ような、そのイメージに「いのちが吹き込まれていく」ような可能性にも開きつつある付置、としてとらえたい。

 そんな背景もあって、発達障害の本質的特徴として「象徴機能が成立しているかどうか」を見るといっても、文字通り実体的にそのことを示しているような言語獲得の遅れのような例だけではなく、「その人の象徴機能が、世界との関係の中でスムーズにその人らしく発現しているかどうか」などといった、もはやかなり象徴水準も普遍性も高いテーマも同じ系列でとらえられることになった。そうなると、例えば、言葉もわかりやすく人との情緒レベルコミュニケーションも細やかに見え、情緒も安定していて周囲にも愛されている(けれど本人は鬱だったり引きこもりだったり)みたいな場合でも、話しを聞いていくと、とても発達障害的なテーマを抱えているということにもなって、発達障害とされることも十分ありえた。セラピストや医者等の援助者が、相応にその本質的特徴に敏感な者であれば、少なくとも自分の内側に抱えている(診断として明示的に伝えるのとは異なる)見立てのレベルにおいては、一律発達障害としてきた、と言っていいと思う。

 けれど、もしかしたら、という予想ではあるのだが、これまでの心理療法の(私の拙い表現だと「イメージできないということをイメージする」とか「イメージのデットポイントというイメージを逆手にとる」とかになるのだが)はっきり言って無理芸とも言える試行錯誤や、もちろんなによりもまず発達障害者自身の、生きつづける試行錯誤(それもやはり、人によっては、もはやこれは無理芸と感じつつしているような、そんな試行錯誤)と、それを見て周囲の人も何かしらを感じてきている、ということも経て、多くの大人の「発達障害」は、「発達障害」というその名を今後少しずつ変容させていくかもしれない。そんな世界をかすかに見はじめている。

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同記事まとめて①〜⑩

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