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Fuji to Higanzakura

料理簡易記録、もしかしたら、心理臨床

ラ•トラヴィアータ 道を踏み外した女⑧

Higanzakura視点

 私が受けてきた心理療法教育では、イメージや表現というものをとても大事なものとして扱う。それ自体に力のあるもの。そのことは染み付いて、自分の根にある。ただ、従来の見方のままで、そこから養分がとれるかといったら、もはやそういうものではない。中身(意味)もなくなっているかもしれない箱。だからあえて箱をあけたりはしない。

 こういう表現だと、蓋していないで自分の弱さを見ていくべき、というところにつながりやすいけれど(でもそれは底なしだからね)、「ヘンな日本美術史」(山口晃)を読むと、そもそも中身と箱、図と地、などのとらえ方もいろいろ想定できるかもしれないもので、今、多くの人が一つと思ってるそのとらえ方はどこから来たものなわけ? あなたの内側からとは限らないよね。他の人例えば西洋からかもしれないよね? という問いも立てられるんだけどね、と言ってくれてるように思えて、けっこう泣ける。

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 尊敬しているある研究者さんは、日本の発達障害の現象と向きあう中で、最近少しずつ、日本人的主体ということを考えだしているようだ。心理学的に見た「主体」というものはこういうもの、と漠然ととらえられてきたようなこれまでの「主体」とは、別の主体(日本人的主体)を想定する、ということなのではないかと思っている。私自身は、日本人的主体という概念の中に入って変容するには、きっと少し長くあちらにいすぎてしまったろうけれど。

 またHSP(Highly Sensitive Person 繊細すぎる人) という概念などは、概念提唱者さんが細かいケアモデルや、HSP郡の適応状態の違いの要因仮説などととともに世に出していて、そういった細かいこと全てが 妥当そうかどうかにこだわることも大事とは思うけれど、私にはなによりもまず、非HSP郡がこれまで世の中的にはそれだけだと思われていたような「主体」のあり方だとすると、それとは世の中を別の感じ方や別の次元で生きているHSP郡という「主体」のあり方を提唱したんだな、ととらえられることが興味深い。

 オマージュ⑧より

「今の時代なら、他者性の間の他者性(異質性)を発見できる。」

 

 

同記事まとめて①〜⑩

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