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Fuji to Higanzakura

料理簡易記録、もしかしたら、心理臨床

ラ•トラヴィアータ 道を踏み外した女⑤

Higanzakura視点

 何か、ふわっと見えかけた気がして、つかまえられないかとかなり粘ってみたのだが。。。

 原作の墓のシーンを、オペラではどうして組み入れなかったのか、という疑問を、以前からけっこう長く抱えていた。最期、アルマン(アルフレード)が、マルグリット(ヴィオレッタ)の死に間に合うか間に合わないかという設定を、オペラは原作とは違えたから、と言ってしまえばそれまでなのだが。腕の中で死んでおそらく墓入れまで見届けているだろうという設定になったら、もう墓をあばくという流れにはならないよね、という話し。

 でも、今回原作を読み直して、オペラは、原作を「変えた」というのではなく(あくまで私の主観的体験として)、原作とオペラ脚本は別別の別人格なのだ、と。原作に対して、原作とは別人格のオペラ脚本を対置させたのだ、と。

 自分の想像を越えた何か異質なもの(他者と言ってもいい)とは、出逢うことはできても、同じ土台の次元で語り合うことはできない、自分の中でイメージさえすることができない、ということとつながっているのだが。。。

  オペラのヴィオレッタも、原作のアルマンも、自分の想像の外の異質さにそれぞれのあり方で開いている。原作もオペラも、内容的には、悲劇のもとを高級娼婦という設定に帰させているが、自分にとっての異質さの先をそれぞれの恋の相手とするとき、次元を共有できないという点で悲劇になるのは必然というとらえ方もでき、その悲劇すら、原作のアルマンとオペラのヴィオレッタは、共通の物語として共にすることはできない。原作のアルマンの悲劇と、オペラのヴィオレッタの悲劇はそれぞれの悲劇であって別のものだ、原作とオペラは、それぞれ別次元を生きる別人格だ、と思ったとき、「原作:la dame aux camélias 椿の貴婦人」と「オペラ:la traviata 道を踏み外した女(椿姫) 」は、他者同士のカップルとして、今この世に穏やかに存在し時を共にしている、というイメージになった。ふわっと幸せになる。

  。。。実はこうしたイメージの動き方は、心理療法的展開モデルの一つだ、と今気づいた。

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そういえばバレエヴァージョンもあった。タイトルは「マルグリットとアルマン」で、原作ヴァージョンの名前だが、内容構成はオペラのそれ。「マルグリットとアルマン」というタイトルは、原作の方の世界ですよ、ではなく、オペラプロットを知っていることを前提に、でもオペラとは違う世界ですよ、ということかな。音楽はリスト。

 

 

同記事まとめて①〜⑩

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