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Fuji to Higanzakura

料理簡易記録、もしかしたら、心理臨床

ラ•トラヴィアータ 道を踏み外した女③

Higanzakura視点

 残念ながら見てはいないのだけれど、アルフレードという名の記号と対話しているというその演出だと、彼女自身の閉じた狂気内だけの話しということになるわけだが、そうであっても、もはやその甲斐も意味もなくなっている時にも関わらず生じる、その「生きたい」という思いは、やはり何かとてもリアルなものとの出逢いとして解釈するのでいいのではないか。

 図書館に返してしまったから、うろ覚え記憶からだが以下、山口晃氏の「ヘンな日本美術史」の中から。白熱するベースボールなりなんなりの試合があって、それをスタジアムで観客が見て感動興奮する。この場合、その試合が作品。試合を見て興奮している観客のいるスタジアムごと、メタ視点で作品にしてしまうという動きの始まりとして有名なのが、便器を展示して泉と称したマルセル•デュシャンの作品。以降意識のメタ化はどんどん進んでいて、そのうち人類は地球の裏側に寄せ集まって窒息死するしかなくなるんじゃないかと思うが、そういうメタ化へメタ化へと向かう意識の流れは流れとして止められるものではないけれど、その流れの中にあっても、それでもそもそも「試合」が面白い、という感覚は大事なのでは?、みたいなことが書かれていたと思う。

 ヴィオレッタの狂気世界内という、メタをメタにしたらひっくり返って閉じた世界になってるみたいな超メタ演出であっても、アルフレードの腕の中というベタ演出であっても、いずれにせよヴィオレッタの「生きたい」に出逢って、引き裂かれたい。

 「状況によらず、生きたいという思いよあれかし」というのではなくて、そのような思いの意味などもはやなくなっているにも関わらずそれは生ずるとしたその演出に、おそらく私たちはある種のグロテスクさを感じるのだが、物事には、ましてや「生きたい」という人の思いには、なんらかの意味はあるはずとしていたい人の心のあり方という「枠」の「外側」に触れてしまって揺さぶられていることを、グロテスクさを感じることによって、舞台を見ている私たちは感じることになる。メタ化意識が進むほどに「意味」や「情動」は喪失していく。それはそういうものだ。だからその演出のオペラを見てグロテスクさも感じずに「ふーんヴィオレッタの狂気演出なのかわかったよ以上終わり」となるとしても(私にもそういう部分はある)、グロテスクさをただ、情動のような実体感なしに(知的?脳的?)快楽として消費するようになるとしても、それもメタ化意識へのとめようもない流れの理(ことわり)だ。でももし、この演出で涙するとしたら、そういう流れの理は理として認めながら「だが私は断る」のであり、ヴィオレッタの、もはやそれは意味のなくなった形だけかもしれないその古典的愛情表現形式や、ヴェルディの圧倒的な音楽に仮託しながら、生アルフレードに「生きたい」と訴えるベタ演出時のヴィオレッタの如くに、自分が引き裂かれることを自ら選ぶ、ということをしているのだ。

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追記:

 後日改めて本を買い、読み直し、だいぶ自分の言葉で換えすぎている、と反省含めて思ったけれど、表現が色々な人にとって色々にとらえられてしまうことを、ふわりと受け止めたりふわりと逃げたり、ふわりと(必要ならしっかり)否定もしながら、表現を続けていってくださるはず、と思ってそのままに。

 

同記事まとめて①〜⑩

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