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Fuji to Higanzakura

心理臨床ベースに少しずつ

赤を想う⑥

Higanzakura視点

 ②で書いたように、このような形ある赤を見て泣いたのはなぜだろう。その赤を見たときに、そのクライエントさんが、他者や世界にどれほどの大きな 愛情をもっているのか、セラピストと出逢ったことでクライエントさん自身がそのことに気づいてしまったこと、さらにそのような愛はこの世ではぴたりとは報 われないことをも既にどこかで気づいて、それでもこの世を選んで生きてみる、それが私の愛だよ、というような、この人の愛情宣言のようなものが、その赤か ら、ざーっと入って来たからだ。そして、セラピストはやはり、この世でぴたりと合うようにはその愛には応えられない。それに応えるのは心中ということだ。 「1個体」としての「形ある赤」は、だから、あなたに出逢って気づいた自身の強烈な愛情欲求は表すけれど、応えてはもらわない、そこを私は生きる、とさえ 言っていた。

 以上は、その赤を前にしたときの私の妄想と言えるようなものだ。それは外れた妄想ではなかったが、ただ私はこのとき、やは り、クライエントさんはこういう人だ、こういう主体だ、ということをその赤という対象から解釈した、ということになる。私のように前倒しで感じてしまった 場合、実は④で書いたように、結局セラピストはセラピストの解釈物語の中を、(半ば確信犯として)生きる、というのは難しくなる。ように思う。それでもす るけれど。ただ少なくとも私は、それを苦しいと感じる。

  この「赤を想う」の記事は、西洋近代的な自身の中心性に根ざすような主体感覚と は異なる、境界的なところから立ち上がる主体感であろうとも、心理学の分野というのは、その人個人の「主体」という概念発想からは自由になれない、という ところで書いているが、私が感じる苦しさもつまりはそこにある。

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