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Fuji to Higanzakura

料理簡易記録、ときどき、?

周産期心理臨床セミナー記事①から⑧まで

 

 ① 親子間のこころが育まれる可能性を守ること

 

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 周産期心理士ネットワークの代表をされている、周産期精神保健というジャンルをつくられてきた方のセミナーを受ける機会があった。

 周産期精神保健とは:いのちが誕生するまでのプロセスを経て人が人として生まれ育つ原点となる時、また親が親として誕生する時でもある、周産期という時期に、医療従事者や臨床心理士など多職種が連携し親子のはじまりを支えていく「場」として想定されるもの。

 満期正常産出生のケースであれ、早産等で特別な新生児医療が必要なケースであれ、時には死産と一般には言うようなケースであってさえ、(物理的に は短い間となることもあるが)いのちと出会ってつながり、そこに関係が生まれて親子間のこころが育まれる可能性を最大限守ろうと試み続けていく場である、 と理解した。

 

 

② それは心理臨床か

 

特にスカイプによるHiganzakuraセッションは、果たして心理療法面接やカウンセリング面接なのか。そのつもりでやっていた時期もあるけれど、どうにもそうと言うことができない。心理臨床や心理療法的アプローチの構えは根本にあると思ってはいても。そしてその根本こそが、この状態に連れてきたことを感じてはいても。

 今ここで、初めてHiganzakuraセッションと言ったことで、羞恥と、またそれとは別次元のどこか知らない場所に一人来たという思い。

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 心理面接は、一般には場と時間を定めて直接に対面するという枠で行われるものだ。そのような形式面から見ると、周産期精神保健の場での臨床心理士が している、例えば母親と会って話しをするにしても、たまたま保育器の前で佇んでいる母親の傍にいて、表現される言葉や表情や反応を受け止めていくというよ うなそのあり方は、その場のニーズとして自然で納得がいくものながら、セミナー講師の方は、自分のしていることは心理臨床だと信じてはいても果たして心理 臨床と云えるのか、についての自信がなかった時期があったと言う。周産期精神保健という場さえ生み出し、その場自体をずっと育みつづけている今を見ると不 思議だけれど。

 

 

③ 生命讃歌さえ、小さい

 

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 心理臨床の研鑽法の一つとして事例を聞く、というのがある。個別事例をききながらそこに普遍性を感じ取り、他のケースに相対するときの感じ方を耕すようなこと。

 講師の方は「周産期心理臨床は状況的に特殊なものではあるけれど、そこにある心理臨床としての普遍性については、ここでの何が普遍かはこちらからは言わない。それぞれが感じていただけたら。」と。 

 一般の心理療法面 接において、「誕生」というイメージが賦活されることは往々にしてある。時代の流れ的に見てここ十数年来のケースでは特に。一方、当たり前ではあるが、周 産期心理臨床で起こっていることは当然「誕生」であり、ただそれは、生物学的な生命にとどまらない「いのち」の誕生でもあり、親子のつながりの誕生でもあ り、周産期精神保健という「場」(ひいては新生児医療現場に留まらず社会システムとしてのそのようなサポート「場」のイメージ ー世界への信頼につながる ようなそうしたイメージは、周産期の現場とは直接的には縁のなさそうな一人一人の個人にさえ内包想定されていく可能性をおそらく含むー)の誕生である。鳥 肌が立った。

 けれどそうした「誕生」という言葉さえ、そこで起こっていることを事例として聞いた感じを表現するものとしては小さい。生命讃歌さえ、小さい。

 「誕生」という言葉さえ、小さい、と感じたこころの目で、改めて世界を見る。他のケースを見る。

 

 

④ 線引きはない

 

 現代の医療というのは、科学や技術の進歩を効率よく反映させられるようにということもあって、分業の要素が強いなどともよく言われる。けれど新生 児医療の場合は、身体組織の分化も未熟なのだからと考えるともっともだが、赤ちゃん全体の様子を見て行く構えが医療的にも特に必要となる分野だそうだ。医 療スタッフが、場合によっては長期間、知識も技術もこころも身体もまるごと総出で使って保育器の中の赤ちゃんの生命を必死につないで安定させる。けれどそ うしてやっと受け取れるようになった子どもを前に、母親のこころがついていけず受け取れなくなっていた、ということさえ起こる領域では、赤ちゃんの身体全 体を見るばかりでなく、さらにその周辺領域までを含めた全体を見ていく構えがいる、そういうところから、周産期精神保健という「場」ができてきた。

 周辺領域はどこまでで、どこまでがその「場」だろうか。

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 ここまで、という線引きはない。

 遠くの私も周辺領域としてその「場」にいる。例えば、そういう母やそういう子のその後にも出会うかもしれない。主観的な、いのち以前のものがいのちになり、こころ以前のものがこころになっていく可能性、と関わること。もはや私が臨床心理士だからではなく、臨床心理士でなくても。

 

 

⑤ 深淵

 

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 状況によらず、どんなケースもかけがえのないものだが、今まで知らなかったことを聞くインパクトは大きい。

 22週未満であればそれは流産であり、25週目以降であれば、未熟児として保育器の中で過ごす期間は必要だが生命については比較的安定的なことが 多い。その22週と25週の間にはエアポケットのような領域がある。昔であれば、生まれてきても、ただろうそくの火が静かにきえていくようなのを見ている だけしかなかった領域だったそうだ。

 その期間に生まれたハイリスクな赤ちゃんと親ごさんのケースを聞く。

 講師の方は、故河合隼雄氏が思春期についてを語る際に使っていた表現は、そのまま周産期にもあてはまると言っていた。

「誰しも深い谷を通っていく危険な時であるが、多くの人は霧がかかっていて谷の深さに気付かないために、難なく吊り橋をわたりきることができる。たまたま谷の深さを知ってしまった人にとっては思春期を通り抜けることは非常に困難な仕事なのだ。」

 

 

⑥ 生命がいのちとなるとき

 

体重400グラム。女性の小さな手でも片手にのる。アポトーシス(細胞死)のプロセスがまだ発現しておらずまぶたが切れないので目はまだあかない。保育器の中をじっと見つめた後、「爪があるんですね」と言う親ごさんは多いという。

 解剖学者さんが、死体解剖の際、解剖する対象物という距離をとっていても、手と目だけはその人の人となりが訴えてくる箇所だ、というようなことを 言っていた記憶がある。手と目にその人の人となりが感じ取れる感性が人によってあるとかないとかではなく、ただそういうものとして感じられるのだ、という ように。

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 人となりが感じられる、というのはこちらの情動が動くということだ。保育器の中の小さなものを前に、爪の存在に気づき情動が動く。そういう情動の動きは、ただそういうものだから、として見守りたく思う。

 そんな情動は一人で抱えられることもある。「爪があるんですね」というふうに、外に表現されることもある。そんなふうにこぼれおちる情動の表現を、受け止めていく「場」であること。

 

 

⑦ 新しいはじまり方

 

 ⑤で述べたような、エアポケット領域に生まれてきた子どもとその親らは、昔であればいなかった新しい存在だ。そういう子らももう大きくなって、周産期精神保健の場で臨床心理士として既に長くやってきている講師の方のところに会いに来ることもあるという。そんな彼らには、生に対する静かでしなやかなしたたかさ、のようなものを感じる気がするそうだ。会いに来る子も来ない子もいるだろうから、会いに来たこからの印象で普遍化はできないけれど。

 でもそれまでにはなかったようなこの世での新しいはじまり方を、通過してきた人たち、ということは言えるだろう。

 この世でのはじまり方は満期正常産出生で健やかな子として生まれてきても、その人の生はその人だけの、前例のない常に新しいもので、それは時代の 流れがあまりに早いと言われるような今日であればなおさらだ。迷うことは多い。そんな世の中で、前例のないところを生きるということは、それは本当にはじ めからそうだったよ、と体感して知っている人たちが既にただシンプルにどこかにいる。そんな存在を思うとき、それは今という時代のある種の道標のようにも 感じられてくる。  

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⑧ うねりの欠片

 

健常児の出生直後などでは、親子間の発声音声の呼応が観察されていたりする。赤ちゃんがえづいたりすれば親はなんらかの発声を返すなどして、リズムを共にする。存在の波長を共にしようとする。親子間のこころがはじまるときの図の一つだ。

 とても小さなハイリスクな赤ちゃんで医療措置を色々とらなければならず鎮静もかけられていたりすると、保育器に隔てられているその小さな動くこと もないものは、いわゆる赤ちゃんらしい存在感とは、かなり隔たった様子であるという。赤ちゃんからの発声音声もない。そういう赤ちゃんを前にして親ごさん が茫然としている。そんな図は痛ましく見えることもあるかもしれない。

 けれどそれは、いのちらしいいのちになる以前の子、そういう子ともリズムや波長を合わせようとしている、ということでもある。それは、既に自身は いのちを生きているつもりでいる普通の意識状態の人の想像を大きく越えるようなことだ。それでも、親子のこころのはじまりとして、自ずと普通の状態を越え ることになる。それはリスペクト以外にない。

 そういう茫然の一部は、思い描いていた像との隔たりからのショックや先々への不安という表現になることもある。それらは、想像を越えるような、子 どもとの波長合わせの大きなうねりの一部だ。そんなふうにこぼれおちたうねりの欠片を受け止め、周産期精神保健の場自体もおおきなうねりの一部となってい く。

 そう感じるのは、自分が既にそのうねりの中にいる、ということ。

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