Fuji to Higanzakura

料理簡易記録、ときどき、?

1年ひとまわり

今年も母方の親戚から、実家に山のきのこが送られてきた。たまたま私が帰る日だったので、父から電話がかかってき「今日は何時にくる?」「今日遅い、夜10時」「うーん、おばさんからきのこ来たんだけど。いいやお前にやってもらおう」とか言っていたのに、夜に帰ったら、おしょうにん(お坊さんの袈裟のような薄墨がかった黒くて苦いきのこ。ゆでておろし醤油で食べる)のお浸しと、山のしめじの煮物ができていた。山のきのこはおいしいけれど、処理がめんどいのに。やってくれて料理までしてくれてあった。おいしうございました。夜食しみじみ。

翌日の昼は、山のしめじの煮物の汁でにこみうどん。

去年は、おしょうにんの黒くて苦いゆで汁でそばつゆにしておそばにした。おしょうにん味のそばつゆだけ母の口に含ませたら、おしょうにん好きの母が味を認知して、ぱっと瞳孔を開いたあと、うえーんと泣きまねをした。好きな味を認知したな、とわかるような感じの反応をしたのは、それが最後だったかな。そんな話をしながら、今年はきのこうどん。

秋になると、こんなのの出会い率が高くなる。きれいな笠雲は、UFO見たようなお得感がある。UFOは見たことないけど。

こんなことだってあるからね。2年前2020年11月6日

タマゴタケ とうもろこし ももは大久保(はもうない)

きのこは秋のものと思い込んでいて、夏の間は失念してしまいずっと出会い損ねてきたタマゴタケ。桃農家さんまで桃を買いに峠越えをした途中で、キノコの季節だけ営業するほったて小屋のきのこやさんが開いているのを発見。たまごたけも発見。

きれいな赤で、もし白い斑点があったらやばいやつになる。とにかくお出汁に味がいくのでお出汁を味わう食べ方がおすすめだそうです。香りがキノコキノコしている。きのこってこういうにおいだよね、というにおい。腐葉土っぽい匂いというだけではなくてどこか動物っぽくもあるような匂い。

オットがおそばにした。肉っぽく見えるようなのも全部たまごたけ。たまごたけはしゃくしゃくなだけでお味はお出汁にいきます。お出汁の形容はうまくできません。わあ、としか。夏のお山の土の味がしてる「はず」なのはわかる。森の土に興味をもったらもっと敏感に言葉にもなるのだろうけれど。

前菜は、朝採れとうもろこし蒸したやつ。

↑ 脱がされた。BBQで焼くときはそのままでいいのにね。

デザートはもも。

桃は固い身派。母も。母は大久保という品種があると買ってくれて、筋目にナイフをいれてひねると半分に種ごとぱかんと割れリンゴみたいにぱりぱりと食べた。もうずいぶん前。覚えているのは30年くらい前になりそう。あまり甘くないので最近は出回っていないみたい。だから母もずっと何年も固い桃を食べてなかった。ただ今はその系統の「おどろき」というのが、ジューシーかつ固い身でさっぱりめの甘さもあっておいしい。固い桃、ここまで美味しくなったかというおどろき。昨年もらって、ほとんど意識のない母が、好きだったぱりぱり桃の大久保を思い出したのか、ほとんど一つ食べたといって食べさせた姉と父が驚いていた。

今回は、自分用に買ってきた。だけどおどろきも、昔母が割ってくれたみたいに、半分にぱかんとは割れない。

欲しいガジェット ライン的文字チャットができる糸電話

欲しいけど、ないものなので、忘れないようにメモ代わりに。

イメージは、糸電話か、トランシーバーなのだが、やりとりするのは声のかわりに文字。つまり、同じ空間で近い位置で対面している状態で、ラインのようなことができるガジェット(おもちゃ)

子どもに行う心理療法で、プレイセラピーというものがあって、つまり時間と空間(場)が決まっていて、子どもの波長?を感じながら、合わせたり、ずれたり、もしながら遊ぶ。一方、大人の心理療法は、対話をしているように見えるけど、それでも実は子どものプレイセラピーと似たところもある。箱庭も作ったりするし。

大人的な対応もできる中高生などは、話すのが得意じゃない場合も、ライン的なチャットなら反応してくれそうに思えることがある。じゃぁ、そのまま遠隔でラインでつながったらいいじゃない、というのはその通りなのだけれど。それはそれでそういうことが必要なことはもちろんあるのだけど。それだと、何かしらの意味(メッセージ)のやりとり。でもプレイセラピーは(ひいては大人対応の心理療法も)、それだけじゃない。その場を共にして、言葉のやりとりで、意味が生じてくることはもちろん拒否しないのだけれど、実は、意味(メッセージ)のやりとりが目的じゃない、かもしれない、も許す、そんな遊びの場であることが、大事だったりする。そういう「遊び」の場が立ち上がって来やすいように、時間と場所を設定する。同じ空間で、設定されている限りのある時間、話すのが苦手な子が、ラインでやりとりできたら、かなり遊びっぽい。オットに話したら、「対面でラインする?なんで?」って言われた。そりゃそうだ。説明はできない。そういうことをやって、なにか面接が展開していく事例とかがあって、その事例を聞いたら初めてなんとなくわかる、ようなこと。

相手がすぐそこの同じ空間にいるわけだけど、その時間その場でしかつながらないライン。だから、原理としては糸でんわとかトランシーバーで、画面がついてて文字がやりとりできる、そんなもの。

 

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上のつぶやきとは全然関係ないのだけど、キンカンとちょことチーズのホットサンド、挟んで焼く前

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にんじんきらい 

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「にんじんきらい」と言わせてもらえるとき、こどもみたいな気持ちになってちょっとうれしい。シチューとか煮物に、他の野菜とも一緒に入っているにんじんはなぜか特に。「こどもか!」と共にいる人に笑ってもらえそうな状況なら、ちょっと避けさせてもらったり。でも人参だけソテーとか、ビーフシチューの中の野菜は人参だけ、とかだったら好きといえたりもする。境目は曖昧。きらいと言っても許されるのがうれしくて言ってるときもある、かもしんない。

生を果物とあわせてサラダにするは好き。オレンジとかグレープフルーツなどとあわせるのが王道な気がするが、手元にあったのはキウイだったのでキウイ。生の人参の食感がごわごわするのはどうしようかな、と、もどした白きくらげとあわせた。もどしてちぎった寒天などでもいいと思う。お酢とお塩まぜまぜ。味付けのポイントは、しばらく冷蔵庫で放置すること。あればピンクペッパー。

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1年半ぶりくらいに、時間をかけて牛のすね肉赤ワイン煮。しんと静かに元気になる、よな気がする。

タコのない正月なんて

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1年前の1月4日の日付でスマホに入っていた写真。毎年、正月になると庭の水仙を母は活けていたけれど、1年前は、ごはんの際に起きてきて機嫌(と容体)がいいと軽口をたたく程度で、正月の水仙のことを母は自分から思い出すことはなかった。昼間寝て、夜眠ってくれなかったので、昼間になんとか活動してもらおうと、庭の水仙やらハサミやらを私が母の前に用意して活けてもらった。手はしびれなどでだいぶ使えなくなっていたので、結局私が母のリモートを受けてやってたような気もする。起きててもらおうと思ってやったのだが、それに疲れて結局やっぱり寝室に行って眠ってしまった。2、3時間後にまた起きたときには「あの水仙はお前が活けたのか?」と忘れていたけれど、それを見て、正月と水仙は、うちではセットだったことを思い出した様子は見てとれた。

 正月前のそのときの暮れは、病院から母は自主退院したてで、わたしも適応探しの状態だった。先に実家入りしていた私に「姉は、隣町の大きな魚屋なら生タコあるし、30日は夕方5時までってサイトにあるから、まだ間に合う。生たこ買いに行ったら?」という助言電話が来たが、実家の慣れない車で片道25分の土地勘のあまりない隣町に行くのが怖く、今回の暮れ正月は、暮れ正月とかでなく、まずは介護生活がまわるような環境調整を優先しようと行かなかったら、日付も怪しかった母が31日になるとにわかに大晦日だと認識して「生たこがない!」ことも認識したのだった。でももう31日は生たこの買える隣町のお店はあいていまてん。そしてことあるごとにというか、自分はさっき言ったことを忘れるので「生タコのない正月なんて」と何度も言うのだった。「じゃあ、まだあいているスーパーで茹でタコを買ってくるよ」と言っても、用意されてなかったことでへそを曲げてしまっており(ご不満を言ったことは忘れるけれど、機嫌損ねた感情は不思議と継続され「タコのない正月なんて」というご不満表面は繰り返し続くので)私と泣きのケンカになり。ケンカしているうちに、母は兄弟姉妹が多く、家はそう裕福でもなかったので真ん中の母はほとんどわがままのようなことを言える立場でないのだが、なぜか正月の用意では、母好物のタコは必ず優先的に用意されていたらしいことが判明。私が小さい頃は、父と一緒に暮れにアメ横に行くのがイベントで、そこで父は必ずゆでだこを買っていて、お正月はタコを用意するものらしい、とインプットされていたけれど、母用だったのか、と私の側の認識書き換えが行われ、そのうち、母はゆでだこより生タコの方が好きだとなって、生タコが用意されるようになったらしい、と了解した。そういうことなら無理しても隣町に行ってあげればよかったなぁと思ったが、結局生タコは、家の冷凍庫にあったので(父が忘れていた)正月に生タコは食卓に並んだ。でも最初からこれに気づいてたら泣きながらのケンカなんてしてなくて、小さい頃から、正月のタコが、自分も親に大事にされているという表象になっていたという、母にとっての大事な話は、きっと聞けなかった。ケンカは疲れたけど。私はこれから生タコを見るたびに「タコのない正月なんて」を思い出すだろう。そうだねタコは欲しいよね。。。

 母の実家の商家が、知り合いご近所らのハブ地だった影響だろう、姉の友人も私の友人も高校大学の頃はうちをハブ地にしていて、正月になるとうちに来ては、友達が友達を「●●のうちにいるから来いよ」的に勝手に呼びだしていた。中には勝手に冷蔵庫をあけるつわものもいて、生タコをみつけて自分で切って「これうまいね」とやられたこともあるのだが、そういうことには母は機嫌を損ねずご機嫌だった。笑いながら、ことあるごとに思い出して話していた。

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 49日という日付がどう決まっているのかわからないけれど、確かにそのくらいから、母の身体に触っていた感触が薄れてきた不思議。正月のタコの意味認識が、子どもの頃にさかのぼって変わったみたいに、母との関係の景色も、子どもの頃にまでさかのぼってそのクオリア?が変わっていく。母の勝手さに、頭に来てたこと、悲しかったことなどが、どうでもよくなっていったり。自分の手の中で看取った瞬間前後の生な手触りで感じていった生死の境界なしの地続き感は、自分の内側に抽象化され、死もタブーではない何かになって、自分が持ち続けていた母への閉塞的な苦しい感情のようなものにも、そんなにも100%生に執着しなくてもよかったんだろうなといった風(かぜ)が、今は通っている。風通しがいい。子どもの頃からこの風に気づいて感じられていたら、もっと自分も母も楽だったのだろうな、と思わなくもないが、今、自分自身がその風になって、小さい頃から母が死ぬまでの自分のところで吹いてみると(時空がヘンテコになるがその風は当時から吹いていたとも確信的に感じるのだが)、母といる昔の自分が、その風に気づかろろうが気づかなかろうが、風の自分にはどうでもいい。

 在宅看取りも、自分たちには流れの中で自然に起こってきたことでもあり、今は、病院でなく在宅で看取れてよかったとも、ことさらにはあまり思っていない。そういうことになって、あまり困らずにこれたことに対して、色々なめぐりあわせへの感謝があるだけ。

 以下は触った感触が完全になくなってしまう前に。

訪問介護の方は、褥瘡テープとかテープをはがす際の液とか(今はいいのがあるのね)ケアとしてクリティカルなところのグッズは色々知っている。家族として以外と穴だったのが、お顔のケア。「お顔がくすんでくるなぁ。病気だからしょうがないのかな」じゃなかった。顔ぞりやケア、そりゃそうだ自分でできないんだ、と途中で気づいた。

電動レディースカミソリと、寝たまま顔をぬぐうだけで基礎ケアができるよというコンセプトの化粧水シート。最近は自分もこのズボラシート使っちゃったり。お布団の中ではまだやってないけど。。。

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正しさの追求でなく 在宅介護

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 訪問介護の方は、対象者さんが亡くなった後は、家族が連絡をするまで黙って待っていてくれる。葬儀数日後に「パッケージをあけていない介護グッズ類を貰っていただけませんか」と問い合わせたら、いただきますと快く言ってくれて、お花を持ってお線香をあげに来てくれた。父だけがいるときだった。上の写真は数日後に私が行ったときで、すでにお花はくたびれ出していて、すぐ傷むピンクのストックは私が抜いてしまった後で絵的にも歯抜けだが。供養のお花は白青紫系が慣例なところ、あえてピンクのお花を持ってきてくれていた。訪問介護の方たちの、母と向き合ってきた自信。

 姉は母が亡くなったとき、「時々ものを食べさせたりしたので誤嚥性肺炎で逝っちゃったのかな」と言った。私は「介護の人は、心不全の数値も貧血の数値も呆れるばかりで手足もむくんでいるのに、肺の音がきれいで肺には水が溜まっていない様子と血中酸素濃度が(酸素チューブはしているものの)安定してずっと99を保っているのはもはや謎レベルだけど、苦しくないはずだからなにより、と前日にも言っていたから、そうじゃないと思うよ」と答えたが、続いて「でもね、そばにいたら、そのことに限らず、みんなその感じは抱えていて、それぞれに何かしらはあるから」と私は言った。そこに父もにいた。黙って聞いていた。父は私のそれを少し知っている。私は父のそれを少し知っている。言葉にはしない。慰めることもしない。お互い黙っているだけで来た。

 姉は、私や父よりも、生が内包するグレーゾーンは少し苦手な人だ。だから、自分のせいだろうかと口にしてしまう。でも姉が聞いてくれたから、私は父の前で口にでき、こういう介護であれば、グレーゾーンのリスクはそれはそういうものだからいいのだ的な安易な般化にはしないあり方で、でも「それぞれに抱えてるものがある」と私が感じていることとして、父にも聞いてもらえた。姉は「そうか」と言った。

 ときどきほんの少しの飲みものや食べものを母の口に入れることについて、介護の人は、誤嚥性肺炎のリスクについてを教えてはくれたが、母が味を認識して意識水準をパーッとあげるときの家族の嬉しさは共有してくれて、医学的正しさから止めることはしなかった。自己責任だ、と私たち家族は思ったが、介護の人は「認め推奨する」ことはしなかったが「自己責任でお願いします」のような無粋なことも言わなかった。

 持ってきたお花は、母はピンクのパジャマがよく似合っていたから寒色系でなくピンクを入れてきました、くらいの意識だったと思うが、白青系の慣例的なお花でないことに、こちらとしては「そうだよね、わたしたちはそうやってきたよね」という思いがピンク色と重なる。

 玄関先は、光の加減的に少しくたびれた花を置いても絵になるところがあるが、リビングに置いた母の遺影まわりは、今のところまだ、くたびれてきたお花があるのは家族の気持ちが行き届いていないようにも見えそうで、極力新鮮なお花ばかりにするようにしていた。なので一応写真のお花を「玄関にもっていこうか」と父に聞いた。「いいよ、それはもう少しそのままそこに置いといて」と返ってきたのでそのままにした。私もそれでいいと思った。

Life must go on

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 小春日和の、発つのにこれ以上望めないようなお天気の日に、母は出ていった。

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生活は続く。

脊椎管狭窄症による手の痛みとしびれなどはもう何年も前からで、家事は以前から少しずつ母から父の方に移っていて、動けて話もできた最後の夏は三食の用意もすべて父がしていた。母に電話をすると「(コロナだし)来なくていいよ」とやけに機嫌がよかったのは、今や父に全部甘えられる状況がうれしい様子でもあった。それでもお口は妥協せずに出すので、父がカリカリきていることもあったが、今となっては父の仕込まれっぷりが半端ない。(お掃除片付けは母もダメダメ系で口でも指示だしできなかったのだろう、生活領域の部屋は介護保険の訪問サービスのお掃除を以前から頼んでいたが。)朝は今も必ず、畑の野菜と果物でスロージュースが出てくる。娘らはひたすら朝ごはんはいただくだけの人たち。「ここの娘は二人とも帰ってきても朝起きしやがらない」と言われたけれど、朝は年上のお方の方がおつよーございますのでおとーさま。お米は家庭用精米機で炊く分だけ玄米から精米し、寒天をちぎり入れ氷のかけらを入れて炊くという、母の方法そのままを父が繰り返しているのを見ると、なんとも言えない気持ちになる。実家の炊き立てごはんはだから今も美味しい。朝食の支度をそれでも少しはてつだおーとした娘ら二人とも、味噌汁の豆腐を入れるタイミングで最近父からダメ出しをくらって教育された笑。さすがに3食の準備を自分のためだけにするのは嫌になったと、朝は以前の母の慣習通りに調えるが、昼夜のおかずについては、高齢者むけ宅配弁当も利用している。

きどった社交はもともとないが年齢も加わり気楽なつきあいばかりになって、奥のお座敷は、一番涼しい部屋ということで十数年前から食品貯蔵庫のようなことになっていた。義兄が、ぎりぎり滑り込みの魔法のようなタイミングできれいに片付け拭き掃除までしてくれて、母が綺麗な座敷から出ていけたのはうれしかった。

母が出ていったあと、11月の終わりには、庭で収穫された大量のキウイが置かれていた。義兄から「夢破れて山河あり笑」と写真とメールが来た。「あの奇跡は忘れない」と返した。

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「イイネ!!というのは、これはキウイの品種名か何かですか?」と父に聞いたら、大きくて粒が揃っているのを分けた籠で、母のお友達らに差し上げるのにもいいね、なのだそうで。朝のスロージュースにも入ってます。